奈良時代の高僧で徳道上人という人がいた。
先ほど私も直接足に触れて参詣した長谷寺の本尊の大観音像を造立したのも徳道上人とされている。この上人は、西国三十三所の観音霊場の開祖とされている。
突然の病で仮死状態となった上人は、生死をさまよう中で閻魔大王に会った。そこで「地獄に送られて来る者が多いので、現世で悩める人たちを救うために三十三ヶ所の観音霊場を広めるように」と言われ、三十三の宝印を与えられたという。それを元に三十三の霊場を設けたのだが、人々は上人の話を信用しなかった。そこで上人は宝印を中山寺に納めたという。
上人の死後(今度は本当に亡くなったのね)およそ270年後、那智山で修行中の花山法皇の元に熊野権現が現れ「三十三の宝印を探し、観音霊場を広めよ」との言葉を告げた。それを聞いた花山法皇は宝印を見つけ、三十三の霊場を巡礼したのが西国三十三所巡礼のルーツとされている。後に、徳道上人を開祖とし、花山法皇を中興の祖として、彼らが眠る寺院も番外として加えられるようになった。
西国三十三所巡りをするにあたりこの番外三寺を含める人は多いが、正式な札所ではないということでJRのキャンペーンの対象からは外れている。
思うに、三十三の宝印の伝説は何となくわかるのだが、では三十三の札所をここにしようと定めた基準は何なのだろうか。観音を本尊としている寺院という前提はあるとして、そういう寺院は他にいくらでもあるだろう。また地域バランスも南は那智勝浦、西は姫路、北は天橋立、東が谷汲と広い。昔の国割りを考えたりもしたが、今の選抜高校野球のように学校数に比例した枠があるわけでもない。いや案外、一本の巡礼道を構成するのに国ごとのバランスや宗派の勢い、さらには寺の個性や特徴も考慮していたりして。恐らく歴史家の中ではそうした研究も進んでいることだろう。
さてその徳道上人が晩年を過ごし、御廟もあるのがこの法起院。長谷寺の塔頭寺院であるが、初瀬街道の中に入ってひっそりとしている。長谷寺は観光寺院としても名高いが、法起院は今回の西国巡りで初めて知った名前だし、西国巡りをしなければおそらく訪れることはなかっただろう。
その境内、どこかに屋敷の庭にでも入ったような感じである。小さなお堂ではあるが手を合わせる人の姿も多い。長谷寺のスケールの大きさを感じた後で、どこか安らぎを感じさせるものがある。
ここで般若心経を唱え、朱印をいただく。朱印帳にはきちんと法起院のページがあるが、納経軸には「番外」とだけ書かれた5つの欄があるだけだ。この5つにもいろいろな説があるようで、番外3寺プラス高野山、善光寺という人もいれば、番外は法起院(と元慶寺のいずれか)と花山院だけで、そこに高野山、善光寺、そして四天王寺を入れるという人もいる。いやいや高野山ではなく比叡山を入れるのが正しいという説もあって、よくわからない。そこで見えるのは、観音信仰の親分的存在である善光寺はお礼参りの意味も込めて入れる人が多く、続いて自分の家の宗派(真言系か天台系か)の総本山、次いで番外で徳道上人と花山法皇ゆかりの寺院というところだろう。四天王寺というのは、日本に仏教を根付かせるのに力を尽くした聖徳太子への敬意ということか。ここ法起院では、5つの欄の2つ目、列で言えば一番下の列の右端に朱印をいただいた。順番があるのかな。花山院はどこに入れるだろうか、その時が楽しみである。
この法起院の奥には徳道上人の御廟があり、西国三十三所のお砂踏みもある。そのこぢんまりとしたエリアの隅に「葉書の木」というのがある。タラヨウの木なのだが、葉の裏に尖ったもので字を書くとそれが浮き上がり、文字として残るという。それで「葉書」ということの由来とされている。もっとも、「ハガキ」という言葉は、「端書(はしがき)」という普通の書面までの文字数を必要としない短信の意味で、その「端書」と「葉に書く」というのが混ざり合って一つのハガキになったということのようだ。でも、葉に字を書いて通信の手段にするというのは十分あり得ることだと思う。
このタラヨウの木はあちこちにあるが、ここ法起院では「誰も裏に字を書いていない葉を見つけるのは幸運です」とあり、そこに字を書くと願い事がかなうという。そういう目で木についた葉を追ってみるが、いずれも誰かが尖ったものやペンで書いた後である。中には誰かが書いた葉に割り込む形で書いているものもあるが、そこまでする気はない。上を見ると、どう考えても手を伸ばして書けることができない高さにある葉もある。そういうところは塀をよじ登るとか、梯子でも持ってきてわざわざ書いたか。さすがにここは「葉書」ができずに引き返す。
この後、日本で最古の天満宮とされる與喜天満神社に参拝する。こちらの石段はおよそ300段。今日は室生寺、長谷寺、そして與喜天満神社と、石段に上ることが多い。社務所は参道の途中にあり、上には祠や神石があるくらいだが、今ではパワースポットとして知る人ぞ知るところなのだそうだ。
ここでは神式に則って参拝。境内の一角にホワイトボードがあり、「與喜天満神社 絆処」とある。そのキャッチコピーが「貴方しか分からない 時空を超えた心境を表現してください」というもの。うーん、いかにも「パワースポット」らしい怪しさ。「時空を超えた心境」ねえ。まあ、ホワイトボードに書いてあるのは絵馬での願い事とさほど変わらないようなものばかりだったが。




かようにして、初瀬街道を下る。門前で昼食を取ろうかとも思ったが、さほど入りたくなるような店もなく、そのまま歩く。昔ながらの看板が並ぶ新聞販売店や、地酒販売の店など、古い町並みが残るところ。道幅が狭いところだが車の往来はそれなりにある。そんな中、1台の他県ナンバーの車が立ち往生している。前輪が路肩の溝にはまっている。おそらく、対向車とすれ違う時に左に寄せすぎたものだろう。乗っていたらしき人が他車を誘導しながら救助を待っている。おそらく長谷寺にお参りに来て、こういうことになったのではご利益が・・・というところだろう。
駅まで15分ほど歩いて到着。だいぶ遅めにはなるが、昼食は自宅に戻ってからにしよう。割引きっぷでは途中下車できないので、途中で何か買うという手もあるし。ということでまずは上本町行きの準急に乗り、次に向かう琵琶湖竹生島に思いを馳せるのであった・・・。
先ほど私も直接足に触れて参詣した長谷寺の本尊の大観音像を造立したのも徳道上人とされている。この上人は、西国三十三所の観音霊場の開祖とされている。
突然の病で仮死状態となった上人は、生死をさまよう中で閻魔大王に会った。そこで「地獄に送られて来る者が多いので、現世で悩める人たちを救うために三十三ヶ所の観音霊場を広めるように」と言われ、三十三の宝印を与えられたという。それを元に三十三の霊場を設けたのだが、人々は上人の話を信用しなかった。そこで上人は宝印を中山寺に納めたという。
上人の死後(今度は本当に亡くなったのね)およそ270年後、那智山で修行中の花山法皇の元に熊野権現が現れ「三十三の宝印を探し、観音霊場を広めよ」との言葉を告げた。それを聞いた花山法皇は宝印を見つけ、三十三の霊場を巡礼したのが西国三十三所巡礼のルーツとされている。後に、徳道上人を開祖とし、花山法皇を中興の祖として、彼らが眠る寺院も番外として加えられるようになった。
西国三十三所巡りをするにあたりこの番外三寺を含める人は多いが、正式な札所ではないということでJRのキャンペーンの対象からは外れている。
思うに、三十三の宝印の伝説は何となくわかるのだが、では三十三の札所をここにしようと定めた基準は何なのだろうか。観音を本尊としている寺院という前提はあるとして、そういう寺院は他にいくらでもあるだろう。また地域バランスも南は那智勝浦、西は姫路、北は天橋立、東が谷汲と広い。昔の国割りを考えたりもしたが、今の選抜高校野球のように学校数に比例した枠があるわけでもない。いや案外、一本の巡礼道を構成するのに国ごとのバランスや宗派の勢い、さらには寺の個性や特徴も考慮していたりして。恐らく歴史家の中ではそうした研究も進んでいることだろう。












