泰山寺から栄福寺に向かう途中、遍路の無縁墓地に隣接して設けられた遍路小屋で少し休憩し、蒼社川の土手に出る。先の記事でも触れたが、かつては氾濫を起こして人々を悩ませていたところ、弘法大師が村人を集めて堤防を築かせ、加持祈祷を行うと延命地蔵菩薩が現れた・・という泰山寺の由来に関係する川である。今見る限りでは冬場だからか水の流れも穏やかである。

先ほどから道沿いにかつての遍路道の道標を見るが、土手のガードレールの内側にも立っている。ただそこに描かれた手は川の方向を指している。これを見た時は、300~400メートルほど上流に立派な橋があるし、まさか川の中を行けと言うことではなく、保存するに当たりたまたまこの向きに置いたのかと思った。ただ、後で知ったところでは、その昔はこの橋はなく、人々は本当に川を歩いて渡ったそうである。川の水が少ない時は中洲づたいに板を渡して橋の代わりにしたが、雨が降って大水になると板が流されたり、時には川に溺れてしまった者もいたという。とすると、先ほど手を合わせた無縁墓地に葬られているのは、ここで川に溺れて命を落としてしまった人たちなのだろうかと思う。少々流れが速くてもこのくらいなら渡れるだろうと強引に行ってしまったのだろうか、交通手段や道路が発達していない昔、八十八所めぐりは過酷なものだったのだろうなと改めて想像する。

今は普通に歩道つきのコンクリート橋を渡る。土手からの坂を下りきると栄福寺への案内板が出る。山手のほうに向けて歩くが、ここで冷たい風が吹いてくる。ネックウォーマーを取り出して首筋を保護する。
鳥居が現れる。建てられたのは寛政年間とある。先ほどの天保、そして寛政と、歴史の時間で習う幕府の三大改革のようだが、この一帯はこうした古い鳥居や道標を大切に守る考えが広がっているのだろうか。ただこの鳥居の近くに神社は見えず、どこの参拝口なのかというのが気になる。

再び道標が現れ、合わせて現代の遍路道の標識が小川に沿った畦道を指してているが、改修工事中で進むことができない。もうしばらく車道を歩き、バス用の駐車場が現れて栄福寺の参道に入る。57番栄福寺、そして八幡宮の二つの名前が書かれた石柱が出て、最後は少し坂道を上る。途中休憩もあったが、泰山寺から50分ほどで到着した。


栄福寺の創建は弘法大師とされている。弘法大師がここ府頭山で海難事故の平易を祈る護摩供を行ったところ、満願の日に海上の波風が収まり、阿弥陀如来が現れた。その像を府頭山の頂上に祀ったのが始まりだという。また、同じ9世紀の中ごろ、大和の大安寺の行教上人が宇佐八幡の分社を京都の男山(石清水八幡宮)に創建するために宇佐から瀬戸内を航行している時、暴風雨に遭い今治に漂着した。上人は、府頭山が男山に似ていることや、祀られている阿弥陀如来が八幡菩薩の本地仏であることから、この地にも宇佐八幡の分社を設けようと八幡宮を建てた。そのことで、この八幡宮も「石清水八幡宮」である。神仏習合ということで、長い間石清水八幡宮と栄福寺は同居しており、江戸時代の遍路は石清水八幡宮で八幡菩薩と阿弥陀如来に手を合わせて、別当寺である栄福寺で朱印をいただいたという。それが明治の神仏分離で栄福寺と阿弥陀如来が山の中腹に移され、現在に至っている。石柱に二つの寺社の名前が書かれていたのは、そうした歴史の名残ということである。
・・・という由緒ある札所だが、最近では2015年に公開された映画『ボクは坊さん。』の舞台として知られている。私も映画館では見なかったが、タイトルに引かれてDVDで見た。当時は西国三十三所の1巡目を行っていたところで、四国めぐりをまだ考えていたわけではなかったが、本物の札所を舞台とした作品だったのと、モデルが架空の人物ではなく栄福寺の本物の住職の白川密成(しらかわ・みっせい)師というのが面白そうだったので見てみた。映画そのものはこれから若い僧侶として育っていくヒューマンドラマというものだが、今思えば、「西国の後はいずれ四国に」という気持ちは、ひょっとしたらこの映画もきっかけの一つだったのではないかと思う。最初の四国上陸から1年半、ようやくここまでたどり着いた。
映画を見た後で同名の原作も読んだ。白川師が坊さんになったきっかけも触れられているが、今の時代に合った「坊さんワールド」を模索しつつ、「仏教をやってみる」様子がうかがえる。また、随所に弘法大師の言葉、さらには法句経の一句を引用し、その言わんとするところも紹介されているが、1回読んだだけではその全てを理解するのは難しいので、折に触れ、かいつまんで読み返すことにしている。
実は今回、納経帳とともにこの原作単行本もリュックに入れており、もし住職自らが納経所にいるようならサインをお願いしようか・・という厚かましいことも考えていた。



・・とはいうもののまずはお勤め。寒い日であるがさすが連休中で、9時半頃となると巡拝者の姿も目立つ。中には歩きの人もいるがほとんどはクルマで、駐車場には県外ナンバーの車両が並ぶ。それぞれのペースでお勤めをする。奥の本堂、手前の大師堂と回り、新しい感じの納経所に向かう。窓口にいるのは白川師ではなく女性(奥様?お母様?)だったが、一人一人に愛想よく対応していた。
納経帳に朱印をいただいた後で、改めて著作が積まれているのを見る。

その中で文庫サイズの『空海さんに聞いてみよう。 心がうれしくなる88のことばとアイデア』を見つけたので1冊買い求める。税込842円に対して1000円札を出すのは釣り銭が煩わしくないかなと思ったが、「最初から分けてるんですよ」と笑いながら袋詰めされた158円が返ってきた。なお、見開きには「白川密成」と墨書されており、思わぬ形で「サイン本」をいただくことになった(笑)。これから読む1冊となるが、ありがたい気持ちで接することにする。
さて、次は58番の仙遊寺。こちらは作礼山(されいざん)という山の上にあり、今治の海近くから歩いてきたルートもこれからピークを迎える。改めて金剛杖を手に向かうことに・・。
(追記)
この記事を書く中で、ふと。
真言宗、先月には「今空海」とも称される、御年91歳の神戸の鏑射寺の中村公隆師の護摩供に参列した一方で、今治には私より年下で新たな仏教の魅力を発信する白川密成師がいる。ふと、この二人が対談したら面白いだろうな・・と、余計なことを考えてしまった・・・。





















(追記)
この記事を書く中で、ふと。
真言宗、先月には「今空海」とも称される、御年91歳の神戸の鏑射寺の中村公隆師の護摩供に参列した一方で、今治には私より年下で新たな仏教の魅力を発信する白川密成師がいる。ふと、この二人が対談したら面白いだろうな・・と、余計なことを考えてしまった・・・。