泰山寺に到着。これまで歩いて来た道から細い路地に入るとまだ新しい感じの石垣があり、石段を上がったところに泰山寺と書かれた石柱がある。山門や仁王像があるわけではなく、そのまま境内に入る形になる。
正面に見える立派な建物は本坊、納経所で、本堂は左の奥にある。歩いている間は体が温まるが、立ち止まると寒さを感じる。吐く息が白い。その中でまずお勤めである。本尊は延命地蔵菩薩である。
伝承によれば、弘法大師がこの地を訪ねた時、この辺りは川の洪水に悩まされていた。村人たちはそれは悪霊のたたりだと言うので、弘法大師は村人に命じて堤防を築かせ、加持祈祷を行った。すると満願の日に延命地蔵菩薩が現れ、その後洪水に悩まされることもなくなった。このことから地蔵菩薩の像を置いて本尊としたのが始まりだという。「泰山」という名前は、延命地蔵のお経の中の「女人泰産」という言葉から取ったとも、道教で死霊が集まるとされる「泰山」から取ったとも言われている。安産と亡者の安息を祈る場所ということだろう。
そう言われれば、寺の駐車場にもお地蔵さんが並んでいたし、境内にも何体ものお地蔵さん、さらには地蔵車もある。水子地蔵もずらりと並ぶ。ともかく「お地蔵さん推し」の感じが強い。
本堂と本坊との渡り廊下に仁王像が立つのをガラス戸越しに見た後で、本堂と相対する形で建つ大師堂に向かう。こちらでは弘法大師像のほかに、弘法大師が植えたとされる「不忘の松」というのもある。もっとも今植えられているのは、枯れてしまった元々の松の子株から育ったものだという。さらに不動明王や理源大師聖宝の像も並ぶ。
境内全体がどこか新しい感じがするのは、現在の形になったのが最近になってからだそうだ。泰山寺は一時は朝廷の保護もありいくつもの坊を抱えて巨大な勢力となったが、その後兵火で焼かれたり、明治の廃仏毀釈もあって寺も荒れたものになったという。その後、地元の人たちの支援も得て少しずつ寺を復興させ、鐘楼や大師堂も再建された。現住職になってからは寺の敷地も拡げ、外の石垣も新たにしたという。境内の一角に平成15年に建てられた石碑があり、その辺りの経緯が記されていた。四国八十八所の一つとして参詣者や遍路が多く訪ねるからというのもあるのだろうが、寺で新たに何かを建てようとすると地元の人たちの支援は欠かせないものだろう。
納経所で朱印をいただき、次の57番の栄福寺に向けて歩くことにするが、その前に一ヶ所立ち寄ることにする。今治駅から泰山寺に来る途中に「泰山寺奥の院 龍泉寺」という手書きの看板があった。新聞、テレビで紹介された珍しいものがあると書かれていたのだが、どんなものか気になる。泰山寺から歩いて数分のところにあるというので少し寄り道する。
少し坂を上がったところ、個人の庭先のようなところにお堂がある。ここが龍泉寺で、何が珍しいものかというと「鏝絵(こてえ)」の十一面観音だという。鏝絵とは、左官職人が鏝で漆喰を浮き彫り状に塗ったもので、いわばレリーフのようなものだ。これが正面の額として掲げられている。本尊の像は中にあるのだろうが、こんな姿なんだろうな。鏝絵とは江戸時代末期から明治時代にかけて盛んに造られたそうだが、題材は七福神などの縁起物や花鳥風月が多く、仏像というのはなかなかないそうである。現在の本堂が大正初期に建てられたから、その時に合わせて奉納されたものだろう。新聞、テレビで取り上げられたのはかなり昔のことで、今となってはそれほどインパクトがあるわけではないだろうが、泰山寺まで来れば少しの時間を割いて訪ねるのも悪くないと思う(バスツアーの団体遍路の人たちがここまで来るのかはわからないが)。
龍泉寺は特に朱印をいただくこともなく、そのまま栄福寺に向けて歩く。こちらも3キロあまりの距離である。龍泉寺から先ほど通った駅から続く道の四つ角に出ると、道標が立つのが見える。「遍ろ道」と書かれ、手の指が栄福寺の方向を指しているが、側面を見ると天保年間に建てられたとある。この道じたいもその頃から続いているのだろう。ここからは田畑と住宅が混在する景色となる。
そのまま直進すると、建物の角を切り取る形で祠が作られており、その中に道標がある。道標を保護しているかのようだ。栄福寺へはそのまま進めばよいのだが、右には和霊大明神、奈良原本社へ行くとある。和霊神社(大明神)とは宇和島にある神社で、藩政に力を尽くした宇和島藩家老の山家清兵衛という人物を祀る。奈良原神社(本社)とはかつて修験道の霊山としてあった神社で、今は大山祇神社の中に移されているという。いずれも由緒がありそうで、昔の遍路の中にはそちらにも立ち寄って手を合わせた人も多かったのかもしれない。
「名古屋発祥 海海ラーメン FC今治店」という看板のラーメン店がある国道317号線を渡り、さらに少し歩くと「四国遍路無縁墓地」の立札が見える。立札を囲むように10基ほどの墓石が並ぶ。中には紀州のほうから来た遍路の名前がはっきり書かれたものもあるが、「無縁」というだけに法名だけ書かれたもの、あるいは字もほとんどわからないものもある。昔は遍路の途中で命を落とすものも多くあったと聞くが、こうして墓地の形で一つに固められるという景色は見たことがなかった(本当は他にもあるが、途中を公共交通機関で移動しているから私が気づいていないだけなのかもしれないが)。これも地元の人たちによるものだろうか。この敷地には現在老人ホームがあるが、それも何か関係しているのかな。
ちょうどここに「遍路小屋」という新しい休憩所がある。泰山寺から1キロほど来たばかりだが、ここでいったん休憩として、昔の名もなき遍路たちに手を合わせる・・・・。
正面に見える立派な建物は本坊、納経所で、本堂は左の奥にある。歩いている間は体が温まるが、立ち止まると寒さを感じる。吐く息が白い。その中でまずお勤めである。本尊は延命地蔵菩薩である。
伝承によれば、弘法大師がこの地を訪ねた時、この辺りは川の洪水に悩まされていた。村人たちはそれは悪霊のたたりだと言うので、弘法大師は村人に命じて堤防を築かせ、加持祈祷を行った。すると満願の日に延命地蔵菩薩が現れ、その後洪水に悩まされることもなくなった。このことから地蔵菩薩の像を置いて本尊としたのが始まりだという。「泰山」という名前は、延命地蔵のお経の中の「女人泰産」という言葉から取ったとも、道教で死霊が集まるとされる「泰山」から取ったとも言われている。安産と亡者の安息を祈る場所ということだろう。
そう言われれば、寺の駐車場にもお地蔵さんが並んでいたし、境内にも何体ものお地蔵さん、さらには地蔵車もある。水子地蔵もずらりと並ぶ。ともかく「お地蔵さん推し」の感じが強い。
本堂と本坊との渡り廊下に仁王像が立つのをガラス戸越しに見た後で、本堂と相対する形で建つ大師堂に向かう。こちらでは弘法大師像のほかに、弘法大師が植えたとされる「不忘の松」というのもある。もっとも今植えられているのは、枯れてしまった元々の松の子株から育ったものだという。さらに不動明王や理源大師聖宝の像も並ぶ。
境内全体がどこか新しい感じがするのは、現在の形になったのが最近になってからだそうだ。泰山寺は一時は朝廷の保護もありいくつもの坊を抱えて巨大な勢力となったが、その後兵火で焼かれたり、明治の廃仏毀釈もあって寺も荒れたものになったという。その後、地元の人たちの支援も得て少しずつ寺を復興させ、鐘楼や大師堂も再建された。現住職になってからは寺の敷地も拡げ、外の石垣も新たにしたという。境内の一角に平成15年に建てられた石碑があり、その辺りの経緯が記されていた。四国八十八所の一つとして参詣者や遍路が多く訪ねるからというのもあるのだろうが、寺で新たに何かを建てようとすると地元の人たちの支援は欠かせないものだろう。
納経所で朱印をいただき、次の57番の栄福寺に向けて歩くことにするが、その前に一ヶ所立ち寄ることにする。今治駅から泰山寺に来る途中に「泰山寺奥の院 龍泉寺」という手書きの看板があった。新聞、テレビで紹介された珍しいものがあると書かれていたのだが、どんなものか気になる。泰山寺から歩いて数分のところにあるというので少し寄り道する。
少し坂を上がったところ、個人の庭先のようなところにお堂がある。ここが龍泉寺で、何が珍しいものかというと「鏝絵(こてえ)」の十一面観音だという。鏝絵とは、左官職人が鏝で漆喰を浮き彫り状に塗ったもので、いわばレリーフのようなものだ。これが正面の額として掲げられている。本尊の像は中にあるのだろうが、こんな姿なんだろうな。鏝絵とは江戸時代末期から明治時代にかけて盛んに造られたそうだが、題材は七福神などの縁起物や花鳥風月が多く、仏像というのはなかなかないそうである。現在の本堂が大正初期に建てられたから、その時に合わせて奉納されたものだろう。新聞、テレビで取り上げられたのはかなり昔のことで、今となってはそれほどインパクトがあるわけではないだろうが、泰山寺まで来れば少しの時間を割いて訪ねるのも悪くないと思う(バスツアーの団体遍路の人たちがここまで来るのかはわからないが)。
龍泉寺は特に朱印をいただくこともなく、そのまま栄福寺に向けて歩く。こちらも3キロあまりの距離である。龍泉寺から先ほど通った駅から続く道の四つ角に出ると、道標が立つのが見える。「遍ろ道」と書かれ、手の指が栄福寺の方向を指しているが、側面を見ると天保年間に建てられたとある。この道じたいもその頃から続いているのだろう。ここからは田畑と住宅が混在する景色となる。
そのまま直進すると、建物の角を切り取る形で祠が作られており、その中に道標がある。道標を保護しているかのようだ。栄福寺へはそのまま進めばよいのだが、右には和霊大明神、奈良原本社へ行くとある。和霊神社(大明神)とは宇和島にある神社で、藩政に力を尽くした宇和島藩家老の山家清兵衛という人物を祀る。奈良原神社(本社)とはかつて修験道の霊山としてあった神社で、今は大山祇神社の中に移されているという。いずれも由緒がありそうで、昔の遍路の中にはそちらにも立ち寄って手を合わせた人も多かったのかもしれない。
「名古屋発祥 海海ラーメン FC今治店」という看板のラーメン店がある国道317号線を渡り、さらに少し歩くと「四国遍路無縁墓地」の立札が見える。立札を囲むように10基ほどの墓石が並ぶ。中には紀州のほうから来た遍路の名前がはっきり書かれたものもあるが、「無縁」というだけに法名だけ書かれたもの、あるいは字もほとんどわからないものもある。昔は遍路の途中で命を落とすものも多くあったと聞くが、こうして墓地の形で一つに固められるという景色は見たことがなかった(本当は他にもあるが、途中を公共交通機関で移動しているから私が気づいていないだけなのかもしれないが)。これも地元の人たちによるものだろうか。この敷地には現在老人ホームがあるが、それも何か関係しているのかな。
ちょうどここに「遍路小屋」という新しい休憩所がある。泰山寺から1キロほど来たばかりだが、ここでいったん休憩として、昔の名もなき遍路たちに手を合わせる・・・・。