まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

最上川芭蕉ライン舟下り

2019年01月16日 | 旅行記B・東北
山形新幹線で新庄に到着して、陸羽西線に乗る。「奥の細道最上川ライン」という愛称がついている。11時15分発の酒田行きには観光客や鉄道旅行らしい人の姿も目立つ。この線に乗るのも久しぶりだ。

出発するとまず右手に機関庫が見える。1903年に新庄駅が開業するのと同時に竣工した建物で、同時期に県内で建てられた中では唯一現役で稼働していて、当時の姿をとどめている。新庄は奥羽線と陸羽東線、陸羽西線の接続駅で、奥羽線のこの先秋田県への区間は難所のため補助の機関車もついていたという。

陸羽西線も本数は少ないが、山形県の内陸部と庄内地区を結ぶ主要ルートである。例えば東京から鶴岡、酒田に行く場合、新潟から白新線・羽越線ルートというのが主要だと思うが、山形新幹線から陸羽西線回りということも考えられる。

2駅目の羽前前波を過ぎると右手に川が見える。最上川かと思ったが、その上流、最上川に注ぐ鮭川という。「鮭」とつくくらいだから鮭がここまで遡上してくるということか。後で調べてみるとこの上流に鮭川村というのがあり、今も鮭の稚魚の放流や、秋には遡上する鮭の一本釣りというのも行われるそうだ。もっとも鮭釣りは誰でもいつでもできるものではなく、あくまで生態調査の一環という扱いで、事前の申し込みで日時や人数が決められているそうだ。

次の鉄橋で最上川を渡り、11時34分、古口に到着。ここで10人ほどの観光客とともに下車する。ここは最上川下りの観光船「芭蕉ライン」の乗り場の最寄駅である。元日の行程は最上川下りの観光船がメインである。10年以上前、夏の時季に一度乗船したことがあるが、今度は冬の時季である。周りの雪も十分で、冬らしい景色が期待できそうだ。

駅を出ると観光船の送迎バスの運転手から「川下りですか?」と訊かれてバスを勧められるが、確か歩いても10分かからないところで、舟の時間まで余裕があるのでそのまま歩いて行く(ちなみに古口駅から渡し舟の乗り場までバスを利用した場合の運賃は100円)。

到着したのは戸沢藩船番所。新庄からの道は最上川沿いに進むが、ここ古口以降の川下は最上峡と呼ばれる難所で、陸路も整備されていなかった。そのため行き交う人たちは古口で舟に乗り換える必要があった。この辺りを治めていた戸沢氏の新庄藩はここに目をつけて番所を設け、代官を置いて舟の荷物や人物の出入りを監視した。

現在は陸路として鉄道も国道も通っていて、舟は川下りの観光船である。そしてかつての番所跡は「乗船手形出札処」ということで観光船の乗り場だけでなく土産物や飲食コーナーで賑わっている。元日の昼、ちょうど団体の観光バスも到着して店内は賑わっている。代官に扮した係の人の出迎えもあれば、正月だからか振る舞い酒も用意されている。

実は今回、事前に乗船予約をしていた。実際は当日飛び込みでも追加の舟を仕立てるなどして対応はしてくれるようだが、今回は元日ということと、船内での昼食をいただくということで予約していた。乗るのは12時50分発で1時間ほどあるが、待ち時間は船番所の飲食コーナーに座っていてもいいということでしばし待つことにする。大きな荷物はここで預ければ無料で下船地まで届けてくれる。また船内での食事を予約していなくても酒を含む飲食物の持ち込みはOKなのでここで調達も十分可能だ。待っている間にもお菓子などいろいろ試食を勧められる。

そろそろ時間となり、自分の名前が呼ばれて乗り場に向かう。途中「航海安全観音」というのがあるので手を合わせておく。観光バスの団体だと一艘貸切で、その他個人客は乗り合わせである。私の乗る舟には小グループ、家族連れ、ご夫婦、カップルという組み合わせで、一人旅は私のみである。

この便の特徴が、舟の中にこたつが置かれている。燃料は豆炭だという。その上にこの日の食事がすでに準備されていて、そこが自分の席である。東京から来たという50代くらいのご夫婦と一つこたつでご一緒させていただく。

弁当は3種類あり、私が注文していたのは「最上川おしん弁当」。地元産の魚や野菜が使われた一品である。そして単品で芋煮汁。鍋に盛られたばかりで温かい。・・・となればということで、待ち時間に購入したその名もズバリ「最上川」のワンカップを取り出す。「飲み鉄」ならぬ「飲み川下り舟」だ。

船頭も2人がかりで、後方で艪を操る男性と、前方でガイドを担当する女性が務める。山形弁での案内というのも舟下りの風情を演出する。まずは景色も大人しく、「ビバリーヒルズと呼ばれる閑静な住宅地」が広がるところなので、食事をお楽しみくださいとのこと。その間にも最上川についての案内があるので、耳はそちらに傾ける。

「昭和19年7月21日洪水」という看板がある。最上川は山形県と福島県の境を水源として、県を南から北へ、そして西へと流れているが、最上峡のような峡谷も多く、また春の雪解け水や夏の大雨の影響で昔から洪水の多い川でもある。米沢の直江兼続や山形の最上義光も治水事業を行っている。その中で古口地区は最上峡があること、そして先ほどの鮭川との合流点下流に位置することからたびたび洪水に見舞われている。もっとも水位が高かったのが唱和19年の豪雨による出水で、最上川の水位も9メートルほどになったという。

ところが、昨年平成30年にもそれに匹敵する豪雨がこの地を襲ったという。昨年といえば記憶に新しいのが7月の西日本豪雨だが、8月には東北、特に山形県にも記録的な豪雨となり、この辺りも24時間で300ミリを超える雨が降り、昭和19年の看板に近い水位まで来たという。堤防が決壊するということはなかったが、川下りも運休する影響があった。山形でもそうした豪雨があったとは知らなかったのだが、前月の西日本豪雨のような大きな人的被害がなかったこともあるが、それよりも300ミリという数字はさほどでもないという感覚のマヒのようなところがあるのが怖い気もする。

この時季ならではということでつららもあちこちにできている。「インスタ映えするところですねえ」というが、私から見て対岸側になるのでなかなか上手く写真には収まりにくい。まあそこは目でしっかり見ることにする。またつららと言えば国道のシェルターにも結構長いのがぶら下がっている。ちょうど上に滝ができていて、流れた水が凍ってつららになっている。これは舟からでしか見えない景色だ。

最上川は天然杉の宝庫なのだという。最上峡でも樹齢800~1000年のものが群生している。杉がはっきり見えるのは他の木々が葉を落としている今の時季ならではの景色だとか。

「そろそろアトラクションがないと退屈しますねえ」という案内とともに、峡谷の狭いところでは波が立ち、舟も揺れる。そうしたところも何か所かある。

舟下りといえば船頭による民謡の披露も名物で、まずは「真室川音頭」が披露される。そして、NHKの朝ドラ「おしん」のロケ地となった河原では「おしんの子守唄」。「若い人はご存じないでしょうが、あの頃は『おしん』とつければ何でも売れてて・・・」という。先ほどいただいたのも「おしん弁当」だが、「おしん弁当ってつけてますが、大根めしではなかったでしょ?」というフリに笑ってしまう。

仙人堂というスポットがある。かつて源義経が奥州に逃れる途中に最上川を上ったが、この地で一時体を休めた。その時従者だった常陸坊海尊は、自分が負傷していて足手まといになるのを恐れてこの地に残ることにした。その後海尊はこの地で修行を積んで仙人になったという伝説があり、それにちなんで祠が建てられた。それが仙人堂の由来だという。ただ現在は縁結びのパワースポットとして注目されているそうだ。仙人堂に行くには対岸から出ている別の会社の観光渡し舟に乗って行くことになる。義経と従者がここで別れたのに縁結びとは妙だが、こちらの船頭によればご利益は五穀豊穣、家内安全、交通安全、身体健康、学力向上、金運アップ何でもあり・・・ということで、「とりあえず、前を通る時に手を合わせましょう」となり、柏手を打つ。

最上川は松尾芭蕉も『奥の細道』で通っており、「五月雨を あつめて早し 最上川」の句が残されている。この句は上流の大石田に滞在していた時に詠んだが、その時は「あつめて涼し」だったという。ここで言う「五月雨」は今の暦なら梅雨前線が活発な時季で、先ほど書いた洪水の話ではないが、最上峡を下る時は水量も多く波しぶきも高かっただろう。その印象が強かったのか、『奥の細道』では「水みなぎつて舟あやうし」として、「あつめて早し」に改作されている。もっとも「あつめて涼し」のままだったら最上川の一面しか伝わらず、最上川下りが現在のように多くの観光客を集める乗り物にはならなかったのではないかとも思う(別に芭蕉は後の世の観光業界のことまで考えて句を詠んだわけではないだろうが)。

12キロ、およそ1時間の川下りも終盤ということで「お待たせしました」と、「最上川舟唄」が一節披露される。続いては英語版も。「世界三大舟唄の一つで・・・」とあるが、まあそれはお国自慢というものだろう(後の二つは何だろうか)。

最後に白糸の滝を見て、その対岸にある終点の川の駅、最上峡くさなぎに到着。「最上川には春夏秋冬それぞれの良さがあるので、ぜひ4回乗ってみてください」と見送られる。

預けた荷物を受け取り、送迎バスで古口駅に戻ることにする。1時間かけて川下りしたところをバスだと10分で走って行く。先ほど見た景色を復習するかのように遡って行く。

先ほどはすぐに歩いて出た古口駅だったが、列車まで少し時間がある。待合室には沿線の観光パンフレットも置かれているのだが、その中で「陸羽西線」(奥山えいじ)というご当地演歌のポスターがある。どんな歌詞なのか検索してみるとキャッチコピーが「男は列車の中で、己の心に問いかけながら、愛する女への想いを走らせる・・・」。すごいねえ、「飲み鉄」の私にはなかなかできない芸当である。ちなみに1番の歌詞を引用させていただくと、「最上の川面をすれすれに 一羽の鳥がひるがえる おまえも群れにはぐれたか それとも何かをなくしたか 陸羽西線こころは揺れて 車窓(まど)に面影ゆきすぎる」

14時36分発の酒田行きに乗る。今度は先ほどの区間を列車で走る。3とおりの交通手段で最上峡を行ったり来たりする形だ。次の高屋を過ぎ、舟を下りた川の駅最上峡くさなぎの横を過ぎたところで峡谷ムードも終わり、川沿いも開けてきた。

沿線に風力発電の風車がいくつも建っている。ここ庄内町は「清川だし」という独特の風が吹く地域である。夏には奥羽山脈からの南東の風が新庄盆地を経て、最上峡を吹き出し口としてこの地に強風をもたらす。逆に冬は北西からの季節風が吹きつける。この風が農作物の生育に影響することもあるのだが、1980年代から風力発電の技術が開発されるようになると、その強風をエネルギー活用と町おこしに利用しようと、民間や第三セクター、さらには町営の風力発電施設を建設した。現在の発電量は町内の消費電力の約57%を風力でまかなうところまで来ているという。

余目に到着して羽越線に入る。この辺りまで来ると雪もほとんどなくなった。およそ2日間続いた雪景色ともお別れである。この後は新潟に向かうのだが、いったんこのまま終点の酒田まで向かう。酒田からあの列車の乗り納めということで・・・。
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