旅行記が長くなっている今回の旅、ようやく岩手県に入る。陸前高田に泊まることも一時は検討してみたが、翌日15日に三陸鉄道を盛~久慈間往復することにしたため、起点に近い大船渡にした経緯がある。
時刻も15時半となり、気仙沼からは国道45号線が道なりに三陸自動車道に続くのでそのまま走る。陸前高田で下りると、町並みの高台移転が進む市の中心部に出てくる。まだ区画整理が行われたところで建物の数は少ない。
陸前高田で見るのは「奇跡の一本松」である。今でこそ震災遺構があちらこちらで整備されているが、いち早くそうした動きを見せたスポットの一つである。前回6年前の被災地めぐりではここが北の端だったが、その時書いた記事を見返してみると、観光地化の動きに向けてやや冷やかに見ていたように思う。ただ、今回前日からいろいろ回る中で、そうしたスポットも必要ではないかと思うようにもなっている。震災のこと、津波のことも特に違う地域に住む者の中では風化している面もあるが、こうしたスポットがあれば訪ねる目印ともなる。物見遊山気分で行くところではないかもしれないが、遺構と合わせて復興も見るということでもよいのではないかと思う。
前回訪ねた時は国道45号線沿いに更地の駐車場があるだけだったと思うが、今回来ると土産物や飲食店もできている。
その一角に、地元の語り部の人の手による写真展示室がある。陸前高田の各地区の被災~復興の様子の写真が壁一杯に並ぶ。家族連れも食い入るように見ていて、中学生くらいの子もメモを取っていた。震災があったのが8年前だから、この子どもはまだ小学校に上がるか上がらないかくらいで覚えていないだろう。ただ子どもはもちろん、大人も学ぶところは多い。写真もそうだが、メッセージに語り部の熱い思いが込められている。
「奇跡の一本松が何故残ったか?」という問いには、色々な要件が重なったとしつつも、「津波の高さよりも枝の部分が高くスルーした」、「ユースホステルが防波堤替わりをして守ってくれた」、「気仙川の流れる水が津波の力を弱めた」という考察をしている。
その一方で、日ごろからの「避難」に対する意識を見学者に問いかけている。「避難所に行ったことがあるか?」、「その避難所が安全かどうか真剣に考えたことがあるか?」、「その避難所にどういった備蓄・設備があるか知っているか?」・・。これを大きな間違いと断じたうえで、日本という国が自然災害のリスクが一番高い先進国と認識するよう訴えている。最後には、東日本大震災の出来事を自分事として考え、家族で災害の際に避難する場所・集まる場所を決めておくように訴えている。実際のメッセージはもう少し激しい口調で書かれているのだが、そこまで言わないと一般の人たちには伝わらない実態もあるのだなと思う。
奇跡の一本松だが、道路工事中ということもあり、しばらく国道沿いに歩いて向かう。国道の向かい、海側には新しい施設ができつつある。この9月22日に高田松原津波復興祈念公園というのが開かれるそうだ。被災した道の駅・高田松原も移転して再開する他、国営の追悼施設、津波の伝承施設も新たに設けられる。奇跡の一本松や、被災した道の駅の建物も震災遺構として公園の中に組み込まれることになる。
そして奇跡の一本松に着く。後ろのユースホステルの建物ともども震災遺構。もっとも目にしている一本松は当時の木がそのまま生えているわけではなく、防腐措置や補強、さらにはブラスチックや合成樹脂などによる複製を経たものである。奇跡の一本松についてはこうした経緯もあって地元でも保存の是非がいろいろ言われていて、それが私もやや冷やかに見たことにつながる。今回、一本松だけではなく道の駅なども含めた公園として整備するというのは、もっと広く震災について触れることにつながるので前進と言える。またいつの日か、その公園も訪ねてみようと思う。
この日(8月14日)は女川を出発して海沿いに大船渡までレンタカーで走行だが、当初思っていたより時間はかかった。東北にそれほど土地勘がないので距離を甘く見ていたところもあった。ただその中でも復興の様子、震災の伝え方に対するさまざまな考えというのを少しでも見ることができたのは得るところ多かった。
陸前高田から先は震災以降初めて訪ねるところばかりである。旅の日程もようやく折り返しに差し掛かり、またどのような景色を見ることができるか期待するところである・・・。