まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

かつての終着駅・岩泉へ

2019年09月20日 | 旅行記B・東北

普代村まで来たところで国道45号線を南下して、今回の一連の「被災地復興を見る」シリーズは一区切りとなる。翌日8月17日は三陸自動車道で仙台に戻るが、おそらくこれ以上震災遺構を見る時間はないだろう。

8年半前に発生した東日本大震災。今、これをどう伝えていくかが被災地の中でも課題になっていることが感じられた。被災した建物、例えば役所や学校といった公共施設を震災遺構として保存すべきかどうかは地元でも意見が二分されている。その結果、遺構として公開したものもあれば慰霊碑のみとしたものもあるが、結局ここに出てくるのは「被災者の感情」と「カネ」のいずれかなのだなと感じた。

そんな中、この一連の記事を書く中で震災からちょうど8年半との報道に接するが、明らかに扱いは小さい。全体的には風化と取られても仕方ないようだ。津波の語り部のツアーも、一時と比べれば回数や参加者数は減っているとのことで、また町並みの復興で新たな建物や整備された宅地群を見るとそこが被災地だったと言われてもピンと来ないという話もあるそうだ。次に震災について大きく取り上げるとすれば、ちょうど10年となる2021年なのだろう。

今は映像技術も発達し、また誰もがスマホなどで動画が撮れる。動画サイトには今でも津波の映像が多くアップされている。それらに自分から進んで接する、自分から震災や津波のことを学ぼうとする人にはいいのだろうが、そうではない人のほうが圧倒的に多い。そうした人たちにどうすれば関心を持ってもらえるかは、人間の心理にも関係することで絶対的な正解はないのだろう。かくいう私も常に震災を意識しているのかと訊かれればごめんなさいと言うしかない。

再び田野畑村に入る。向かったのは田野畑村の民俗資料館。時刻は16時を少し回っているが、資料館なら17時までは開いているかと駐車場に入る。他にクルマが1台も停まっていないのが気になるが。

そして玄関に向かうと、「本日閉館」の文字。アラッと思いよく見ると、16時で受付終了とある。他に見学者もいないからさっさと戸締まりもしてしまったのだろう。時間を読み違えた。ドアの向こうに「三閉伊一揆」と書かれた幟があるのだが、「本日閉館」を前にして一緒に討ち死にしてしまったようにも見える。

なぜ残念がるかということだが、江戸時代にこの一帯で起きた「三閉伊一揆」に関する展示がある。

江戸時代後期、ちょうど日本沿岸に外国船が相次いで姿を見せる頃である。ロシアのラクスマンの来航を機に、幕府は盛岡藩に北方の警備を命じた。これにともない盛岡藩は石高を増やされたが、実際の土地が増えたわけでもなく、一方で軍備だけは石高相当の負担となったために、財政が一層苦しくなった。

その中で石高のベースである稲作を強行したが、三陸沖の海霧から生まれた「やませ」が吹き寄せる。今のように寒さに強い品種のコメはないので、例年凶作となる。コメの不作をカバーするために領内に重税を課したため、民衆の不満が高まる。その結果の一揆である。民衆はさまざまな要求をしたが、その中で藩の枠を飛び越えて仙台藩に訴えたものもあったという。三閉伊の民衆を盛岡藩から仙台藩、もしくは幕府の天領に編入してほしいという内容だったとか。

一揆の結果、盛岡藩が頭を下げ、家臣たちにも罰を与える形で収束するのだが、お決まりというか、一揆の主導者は最後は捕らえられて処刑、あるいは獄死する。資料館の一角には一揆の英雄を称える像が建っている。

なぜ一揆についてここまで触れるのかだが、三陸の「やませ」と、中央から見た「暗い歴史」である。今でこそ岩手県は日本有数のコメどころで、高い質の品種も多い。また海の幸も豊富なところとして知られているが、私の勝手なイメージとしては冷害や貧困というのがついてくる。コメが不作の時は、いや不作だろうが豊作だろうが民衆はアワやヒエを主食としていたとか、娘を東京の金持ちに売るとか、あくまで社会科の資料集の1ページで見た印象を今もそのまま引きずっている。

それだけ厳しい土地なのである。それを何とかしないかと立ち上がった民衆がいたことに思いを致すことが大切なのだろう。それにしても、資料館の時間を確認せずに思い込みで乗り込むって・・・つくづく自分をアカン奴やと責めてしまう。

国道45号線から離れて、岩泉を目指す。内陸に入ったので、津波からもいったん離れることになる。

道の駅がある。鉄道の岩泉線は廃止になったが、道の駅はあちらこちらでドライバーたちの安息の地になっている。岩泉の町中よりかなり東よりだが、ここも人気スポットだという。

道の駅とは別経営ながら、さまざまなキャビンを構えた宿泊施設がある。その中に、3両つないだブルートレインの寝台車が見える。そのヘッドマークは「日本海」。かつて大阪と青森、函館を結んでいた寝台列車である。

このブルートレインも宿泊棟として開業している。外から見ると当時のB寝台そのままの造りだ。施設「ふれあいらんど岩泉」のホームページによると、4人向い合わせの寝台1ボックス単位や、1両貸切の料金がある。また3両のうち1両はA寝台だ。

もっとも寝台では文字通り寝るだけで、食事や入浴は隣接の建物でとある。家族連れ、グループ、部活の合宿での利用に適しているそうだ。それでも鉄道ファンが一人で1両まるごと貸切にすることもあるようで、ネットにはその旅行記もちらほら出てくる。1両貸切とは鉄道ファンとしては夢のようだが、ただ走行音も振動もない寝台車で一夜を明かすとは、眠ることができるだろうか。それでも、この宿泊施設の存在を以前から知っていたら、結果論かもしれないが今回の宿泊地に加えていた可能性は高い。トレーラーハウスとの対照というのもありだったかと思う。

岩泉の町内に入る。やって来たのはかつての岩泉駅。列車が来なくなって何年も経つが駅舎は商工会か何かが入っていて現役だし、駅前のバス乗り場では三陸鉄道の岩泉小本駅行きなどが発着する。翌日はこの岩泉線跡に沿って走ることになる。

この日の宿泊は「ホテル龍泉洞愛山」。老舗の観光ホテルである・・・。

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