加古川の鶴林寺にお参りした後、加古川線と北条鉄道を乗り継いで法華口駅に到着した。
法華口駅といえば法華山一乗寺の玄関口というよりは、駅舎が「モン・ファボリ」というパン屋であることで知られている。地元産の米粉を使っているのが売りである。また委託の女性駅長が凛とした姿勢で列車を見送る光景も人気で、パン屋と合わせて、法華口駅は北条鉄道に乗って、あるいは北条鉄道ではなくクルマで直接乗り付けて訪ねるスポットになっている。この駅と女性駅長は『サザエさん』のオープニングの兵庫県版にも登場したくらいだ。
私が法華口駅に着いたのは昼下がり、パン屋は営業していたが商品はこれまでに売れたようで、店先にはわずかしか残っていない。ただ、残っているパンを買うかとなると、そこまで無理することもないかな。また、女性委託駅長が見送りに出ることもなかった。まあ、昼を過ぎた時間である。この日もパンは順調に売れたのだろうし、駅長といっても24時間詰めているわけではなく、この日の勤務は終わったのだろう。
駅を出て踏切を渡り、バス停に向かう。県道沿いの歩道もないこのバス停から乗るのは3巡目にして初めてだ。社から姫路に向かう系統。今回、両方からのバスの時刻を確認したところ、この時間帯なら14時39分発の姫路行きに乗って一乗寺前のバス停に着き、1時間後の15時51分発のバスで姫路に行くのがスムーズだ。この時間帯の他のコースだと、一乗寺の時間がほとんどないか、2時間以上ぽっかり開いてしまうかのいずれかになってしまう。
以前に歩いた道をたどり、10分ほどで一乗寺の正面に着く。一乗寺はかつて広い境内を持っていて、その名残はバス道とは別の旧参道にある。山門と呼んでいいのか、今もバス道の脇に小さな門が建っている。
一乗寺と書かれた石柱の前で、白衣姿の男性が一心に何かを唱えている。耳をすませたところでは、西国三十三所の各札所のご詠歌のようだ。西国めぐりも数をこなしている人はたくさんいる。こうして熱心に回る人も一定数いる。私なんかかわいいものだ。
拝観料を納めて境内に入る。正面には162段の石段が続く。とは言っても一気に上るというわけでもなく、途中にある常行堂や、平安末期に建てられた国宝の三重塔を見ながらである。
江戸時代に再建された本堂に上がる。縁台からは先程の三重塔や石段を見下ろすことができる。山の中の古刹の雰囲気がある。
本堂でお勤めとした後、先達用の巻物の納経軸に重ね印をいただく。一乗寺は2巡目も早い時期に訪ねたために西国1300年の記念印がまだ入っておらず、この機に押していただく。デザインはやはり三重塔だ。記念印は2020年の事業終了までのもので、別に全部揃えなければならないというわけではないが、まだの札所もそれなりにあるので、他のお出かけと上手く組み合わせて回りたい。
奥の院に向かう。確か大雨の被害で立ち入りができなかったが、今回は修復が終わったのか道が通じていた。少し坂道を上がると開山堂がある。一乗寺を含めて播磨の寺院の開創にいろいろ登場する法道仙人を祀っている。
さらに奥には賽の河原があるようで上り坂が続いているが、次のバスの時間もそろそろ気になるし、どのくらいの距離があるのかわからなかったため、ここで引き返す。そのまま石段とは別の坂を下り、西国三十三所の本尊お砂踏みの一角を抜けて入口に戻る。
15時51分発のバスまで、参詣者用の休憩所に入る。無人だが、椅子や給茶器もあり自由に過ごせる。中には西国三十三所めぐりのJRのキャンペーンのポスターや、一乗寺が属する天台宗関連のポスターがあちこち貼られている。一乗寺の本尊である聖観音像は秘仏だが、こういう姿なのだなというのがポスターからうかがえる。
姫路駅行きのバスが来た。一乗寺からは40分あまりかかるようで、山間地域や山陽自動車道、いろいろ集落を進むうちに町の景色になった。姫路城の東側に来るルートで、最後は天守閣もわずかながら見ることができた。
さて姫路駅着。ここから新快速で大阪に戻るのだが、コンコースがざわついている。東加古川駅で人身事故があり、JR神戸線は姫路から土山まで運転見合わせという。復旧までの時間も読めないので、青春18きっぷを引っ込めて、山陽電鉄の姫路駅に向かう。JRからの振替利用の客も多く、梅田駅行きの直通特急の先頭車両まで行ってようやく座れた。
その後JR神戸線も復旧したようだが、すでに梅田行きに乗っているし、わざわざ乗り換えるのも面倒だとそのまま乗っていた。青春18きっぷもこの日の移動だけ見れば1日分の元は取れなかったかもしれないが、ここまでの「貯金」があるし、この後9月7日にも最後の利用があるので問題ない。
・・帰宅後に、この人身事故に関するニュースがあるのかネットで検索してみた。事故があったのは姫路行きの新快速が東加古川駅を通過した時で、亡くなったのは加古川市在住の男子高校生。駅のホームから線路に下りたようで、これは自殺として扱われた。
この9月1日はカレンダーの並びでたまたま学校の夏休み最終日だが、現在では休み明けの始業式の日、あるいは休みの最終日は子どもの自殺率が他の日と比べて断然高いのだという。この日東加古川駅で新快速に飛び込んで亡くなった生徒もその一人ということか。学校でどのような悩みがあったのかはわからないが、電車に飛び込んで自殺するくらいだから相当思い詰めてのことだろうし、周りも支えきることができなかったと言える。「死んだら負け」と簡単には言いたくないが、どうにかして自殺を防げる方法はなかったのかなと思う。
こういうことに対して、仏教の側で何かできることはないか、今の時代に仏教も捨てたものではないと思わせるものはあるか。
とりあえず手を合わせることから始めるのかな・・・?