宮古で乗客が入れ替わった9時23分発の久慈行きは、市街を抜けて長いトンネルに入る。やってきたのは一の渡駅。三陸鉄道における秘境駅である。三陸鉄道というと海沿いを走る景色がよく紹介されるが、こうした山の中の小さな駅もある。
一の渡を出るとまた長いトンネル。このトンネルを抜けると窓ガラスが曇る。トンネルの中と外の温度差が大きいのだろう。この先も写真のような見え方の区間が多い。
田老に到着。田老といえば高い防潮堤がある町ということで、私も小学校や中学校の地理で習った覚えがある(教科書に載っていたのかな)。明治、昭和の大津波で町が大きな被害を受けたことを受けて、45年ほどかけて巨大な防潮堤を築いた。「万里の長城」と呼ばれるほどで田老町(現在は宮古市に編入)の名物だったが、東日本大震災の津波は「万里の長城」をいとも簡単に乗り越えた。田老地区だけで200人以上が津波の犠牲になったのだが、立派な防潮堤があることの安心感から逃げ遅れた人が多かったとも言われている。
田老を過ぎると「新田老」という駅名標とホームが見えた。宮古市の田老総合事務所の新築移転にともない新たに設けられる予定の駅である。
田老までは旧国鉄の宮古線として造られたが、この先普代までは三陸鉄道の開通により開通した区間ということもあって、トンネルがもっと長くなる。トンネルとトンネルの間に駅があるという感じだが、地形によるところも多い。三陸鉄道が開通する前は海べりの集落間の移動は、険しい山道を行くか、それこそ船で行くかだったという。
その中で津波で鉄道も大きな被害を受けた島越、田野畑を過ぎる。中でも島越は駅舎、線路も津波で流されたところで、駅に隣接して慰霊碑もある。ただ霧が濃くて写真が撮れない。
普代、白井海岸を過ぎる。堀内(ほりない)の手前で減速する。大沢橋梁で、海をバックに列車が走る写真の定番である。もっとも列車に乗っていたのでは列車込みの景色は見られないのだが、ここでしばらく停車して、車内からの撮影タイムとなる。山側のボックス席にいる人も海側に寄ってきてカメラやスマホを構える。
堀内はドラマ「あまちゃん」で「袖が浜」駅として登場したところ(ドラマを見ていないので、そうですかという感じだが)。
堀内を出てすぐに過ぎるのは安家川(あっかがわ)橋梁。秋には鮭が遡上する清流である。またも高いところからの展望となるが、数分前に渡った大沢橋梁と対照的に霧が濃い。朝、盛から三陸鉄道に乗って来て、天気の移り変わりを感じていた。台風も西日本に来ているから天気が不安定なのはわかるが、これは曇りとは違う霧である。島越は窓が曇っていたから写真はないが、駅の周りは霧で覆われていた。
そうか、これが三陸の海霧なんやと。内陸で朝にできる霧とはまた違った景色である。三陸沖は南からの黒潮と北からの親潮がぶつかるところだが、夏に張り出す太平洋高気圧の空気が親潮で冷やされ、水滴となって現れる。それが海霧の正体である。そしてそれが巨大な固まりとなり、海からの風で流されると昔から農作物にも影響を及ぼす「やませ」となる。
十府ヶ浦海岸から陸中野田にかけても約18メートルの津波により大きな被害を受けた。町並みの高台移転と同時に、かつて町並みがあったところには防潮林や緑地公園が整備され、三陸鉄道の路盤も再建時には第2堤防として造られた。
11時07分、久慈駅のもっとも端のホームに到着。盛から163キロを1度乗り換えで4時間半かけて到着した。長いようなあっという間のような時間だった。ここで約1時間滞在して、折り返し乗車とする・・・。