まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第44番「神護寺」~西国四十九薬師めぐり・14(西明寺、高山寺の冬景色)

2020年02月08日 | 西国四十九薬師

清滝川に沿って歩く。この辺りも紅葉のスポットだし、夏は川床もやっている様子だが、冬の時季というのはひっそりとしている。料理店も営業はしているものの客の姿はほとんど見かけない。

赤い欄干の橋があり、三尾の一つである槇尾山西明寺に続く。「河原でバーベキューはしないでください」の看板がいくつもある。夏場などそれだけバーベキューがしたくなるスポットとも取れる。

石段を上がると西明寺の山門に着く。平安時代、弘法大師空海の弟子の一人である智泉により、神護寺の別院として開かれたのが始まりとされる。後に和泉の槇尾山寺(つまり、西国4番の施福寺)の我宝自性にて再興された。このつながりで槇尾山の名前がついたようだ。

正面の本堂は江戸時代に桂昌院(徳川綱吉の母)の寄進により再建された。桂昌院は西国20番の善峯寺の再興にも登場するが、信仰心の篤い人だったとされる。こうしたところにも寄進がされていたとは、やはり財力も大きなものがあったのだろう。

正面横の扉が開いていて拝観受付とあったが、有料ということもありどうしようかと迷った末、正面で手だけ合わせて入らなかった。もう札所めぐりが神護寺で済んだというのがあったかもしれない。

西明寺で目に留まったのは苔。特に石灯籠に絡んだ様子がよい。新緑の時季に訪ねれば、より映えた風情が感じられるのではないだろうか。

西明寺を後にして、三尾の最後、栂ノ尾の高山寺に向かう。京都トレイルのコースにもなっていて、トレッキング姿のグループとも行き交う。西明寺から10分ほどで、バス停や駐車場のある一角に着く。

駐車場から裏参道を行くのだが、ここで「工事中」の看板に出会う。

2018年9月の台風21号、関西に大きな被害を及ぼした台風である。知らなかったのだが、ここ高山寺では、国宝の石水院や仏像・寺宝は無事だったものの、200本以上の倒木やお堂の損壊、地盤の崩落などの大きな被害があった。クラウドファンディングも使いながら復興工事が進められていて、境内の大半が立入禁止になっている。看板では今年の3月末までが工事期間と書かれている。

拝観できるのは石水院だけだが、それでも拝観料が変わらぬ800円というのを受付で聞いて引き返す人もいたが、私はそのまま入る。先ほどの西明寺との差は何やねんというところだが、国宝の建物なら見ておこうというものである。

高山寺も平安時代は神護寺の別院だった。神護寺を再興した文覚上人の弟子で、鎌倉時代の華厳宗を代表する明恵上人が後鳥羽上皇から寺の一帯を賜ったのが現在まで続く高山寺の始まりとされている。石水院は高山寺で鎌倉時代から唯一現存する建物で、本来は経蔵だったのを住居として改造し、明恵上人も住んでいたという。明治時代に現在地に移されたそうだが、建物を本坊に囲い込むことで保存するのだろう。

石水院には私が渡ると軋みそうな廊下を伝っていく。庭を見ながら縁側を通ると、正面に当たるところに「日出先照高山之寺」と書かれた、後鳥羽上皇の額がある。華厳経の一節から取ったもので、「朝日が昇って、真っ先に照らすのは高い山の頂上だ」という意味だとか。そうした寺になるようにとの願いが込められていて、高山寺の名前はここから来た。シンプルといえばシンプルだ。

また高山寺で有名なのは「鳥獣戯画」。ウサギ、カエル、サルなどを擬人化して面白おかしく描いたもので、日本の漫画の元祖ともいわれている。用紙の切れ目に「高山寺」の印が押されている。原画は京都と東京の国立博物館にて保存されていて、今年の春も東京で展覧会が行われる。

明恵上人は無私無欲で、厳しく戒律を守った人だという。一方で、自分が打ち立てた華厳密教は、俗人や在家の人たちにも理解しやすい教えや修行にしようとの思いが込められているという。高山寺に入ったのも、当時の栂ノ尾はおそらく今よりも俗世とは離れていたところで、自らの修行に合っていたのだろう。

今回は仕切りの先には入れず繰り返しになるが、1日も早い復興を願う。

栂ノ尾で折り返しのJRバスにて、高雄、槇尾、栂尾の「三尾」を後にする。このまま京都駅まで戻ってもよかったが、ルートを変えようと四条大宮で降りて、阪急で大阪に戻った・・・。