厳島神社、大願寺とお参りの後、中国観音霊場めぐりの一つである大聖院に着く。
山門から石段が続いていて、階段の手すりには釈迦十大弟子の紹介、そして奉納された大般若経のマニ車がある。これをくるくる回しながら上って行く。
大聖院は弘法大師空海が唐から戻った後に宮島で修行した際に開かれたとされる。鳥羽天皇の勅願道場でもあった。厳島神社の別当寺としての歴史が長かったが、これも先ほどの大願寺と同様に明治の神仏分離で分けられ、厳島神社の本地仏であった十一面観音がこちらに移された。この観音が中国観音霊場の本尊である。
石段を上りきると、左手に本坊、右手に観音堂がある。中国観音霊場としてはまずはこちらでお参りだが、堂内の様子が慌ただしい。寺の人が、アルバイトらしい10人くらいの高校生に何やら指示を出していて、何かの準備中のようである。この日は「十三参り子ども豆まき」といって、数え年13歳の子どもたちの厄除け祈願、豆まきが行われる。
ちょっとバタバタした感じだが、観音堂の外陣に上がってお勤めとする。
右手のスペースは一風変わった雰囲気である。そこにはダライ・ラマ14世の写真や祭壇、チベット仏が祀られていている。2006年に弥山開創1200年の行事があり、ダライ・ラマ14世を招聘し、法話とともに弥勒菩薩の開眼法要を行ったとある。
また左手のスペースには多くの仏像に加えて、明治天皇の肖像画や、宮島に行幸した時の絵図が掲げられる。1885年(明治18年)に厳島神社を参拝した際にはこの場所が行在所に充てられたそうだ。ダライ・ラマに明治天皇が左右に並ぶとは恐れ多く感じる。
境内正面の勅願堂に向かう。鳥羽天皇の勅願というのはここで、大聖院としての本堂である。祀られているのは豊臣秀吉が朝鮮出兵にあたり祈願したこともある波切不動明王。その周りは奉納された1万体の不動明王が埋め尽くす。また三十六童子も勢揃いで、何かこう力強いものを感じる。
境内はさらに奥に続き、順路に沿ってお参りできる。いたるところに石像があるが、見ていて心が和む。同じように多くの石像があった前日の三瀧寺は被爆者追悼、平和への祈りの色合いが強く、改まった雰囲気があったが、ここ大聖院はエンターテイメント感があふれている。宮島、厳島神社の雰囲気がそのまま来ていると言ってもよさそうだ。
極楽観音というのがある。中国観音霊場の他に四国三十三観音霊場、九州西国霊場という二つの霊場が合わさって「百八観音霊場」が形成されているが、その第18番霊場が大聖院の中にあるこの極楽観音である。
般若心経のマニ車の手すりを伝って、摩尼殿に向かう。弥山の三鬼大権現を祀り、日々祈祷が行われている。
弘法大師を祀る大師堂が一番奥にある。お堂の周りには西国三十三所のお砂踏み霊場があり、奉納された弘法大師像がある。寒いのか、大師の頭に毛糸の帽子をかぶせたり、首にマフラーをかけたりという像がいくつもある。そうしたことが許されるような雰囲気である。また奥には一願大師という、願い事を一つだけ念じることで叶えられるというありがたい大師像がある。絵馬にもさまざまな願い事が書かれている。
その大師堂の下にあるのが遍照窟。四国八十八所の各本尊が祀られていて、実際の砂が埋め込まれたプレートがある。本格的なお砂踏み霊場である。大師堂の下にあるというのも高野山の奥の院をイメージさせるもので、大量の灯籠、大量の仏像というのも荘厳な感じがする。これもエンターテイメント感の一つ。四国を回り終えたのがちょうど1年前ということで、その時のことなどを振り返りつつ、お砂踏みでの四国一周とする。
さらには七福神を祀る萬福堂を回り、結構お腹いっぱいになった感じで元の勅願堂、観音堂のエリアに戻る。ここで朱印をいただく。
下りは下りで、先ほどの石段とは別の通路がある。こちらには寄進された五百羅漢像が表情豊かに並ぶ。最後まで飽きさせない。
中国観音霊場めぐりの中でここまでさまざまな仏像の寄進や、参詣者参加型の寺というのもなかった。建物自体は最近の建造、再建によるものが多いが、そのぶん参詣者に身近に感じてもらおうという取り組みが多く感じられた。
さて、当初はここからロープウェー乗り場まで徒歩で移動して、ロープウェーにて弥山を目指すことにしていたが、やはりここまで来たら徒歩で行かなければならないのかなという気になってきた。弥山の登山道として整備されているのは3コースあるが、その一つに大聖院コースというのがある。弥山の山頂まで二十四丁とあるが、ふと「修行」という言葉が頭をよぎる。
「かき祭り」は気になるが、広島を出るのは夕方の新幹線だから時間は全然問題ない。案内では山頂まで1時間半~2時間。せっかく来たのだからこの際「弥山に歩いて登った」という経験も積んでおこうか。
ということで、山門の横から続く参道に向かうことに・・・。