第3番の光妙院の参詣後、第4番の薬師寺に向かう。途中の道筋のところどころに昔ながらの家屋も残っていて、落ち着いた感じである。
小瀬川の近くに小ぢんまりとしたお堂があり、ここが薬師寺である。薬師寺ときけば、このたび110年ぶりに東塔の解体修理が完了した奈良の薬師寺を連想するが、その名前の寺は大小関わらず全国各地に存在する。
ちょうど寺の入り口が小さな公園になっていて、薬師寺の案内板も出ている。この寺がいつ開かれたかは定かではないが、南北朝時代にはこの裏の経塚山に「西福寺」という寺があったそうである。江戸時代になり経塚山から現在の麓に移り、薬師寺の名になったという。
本尊の薬師如来は行基の作と伝えられ、一つの木から三体の薬師如来が刻まれ、一つは出雲の一畑薬師、一つは信州の寺、そしてもう一つがこの西福寺に祀られたと伝えられている。「乳薬師」ということで、古くから乳の出ない母親が近隣、遠くは関西からもお参りする人が多かったという。ただ、仏像そのものは秘仏で、60年ごとに開帳されるとある。最近の開帳が1982年のことで、次は2042年とある。
こちらの寺は「無人寺」である。本坊があるのでベルを鳴らせば人が出てくるのだろうが、書き置き式の朱印は箱に入れて本堂の賽銭箱の上に置かれている。まあ、これも気楽でよい。それを確認したうえでお参りである。
本堂の斜め前には弘法大師堂がある。本堂と大師堂の組み合わせは四国八十八所の造りで、こちらでもお勤めとする。
寺の境内、周りには祠が目立つ。古いものは江戸時代に建てられた地蔵像で、その横の小さな祠は、経塚山にある四国八十八所の写し霊場のもの。最初からその気であればミニ登山というのもありだろうが、そこまではいいかと下から見上げるだけにする。
ともかくこれで大竹シリーズは回り終えたことになる。次の第5番からは廿日市市の本土側を行くことになる。
帰りだが、大竹駅に戻ってもよいのだが、地図を見ると小瀬川を渡って山口県に入り、しばらく歩くと和木駅に出ることができる。距離を見てもむしろ和木駅のほうが近いのではないかと思う。
川沿いに入り、歩行者、軽車両用の橋を渡る。地元の人たちの散歩コースになっているが、これで広島県から山口県に入る。時期が時期なら「県をまたいだ不要不急の外出は自粛してください」と警察が飛んでくる事態だ。ただ大竹市、和木町、岩国市の一帯は県をまたいでも生活、産業での結びつきが強いところ。そこは現実的に考えないと。
ただ、どこかで県境は仕切られるもので、和木町に入ったとたん、道端にはこの方のポスター、看板が目につくようになる。昨年までなら兄弟揃っての写真も結構あったはずだ。
駅近くの公園に「四境之役砲台跡」とある。「四境之役」とは江戸幕府の第二次長州征伐のことで、長州側の立場から見た時に使われる言葉である。芸州口、(周防)大島口、石州口、小倉口の4つで、芸州口では小瀬川を挟んでの攻防だった。幕府側は大竹に歩兵、そして海上にも軍艦を置いて攻撃する作戦だったが、長州側の洋式を取り入れた軍隊はこれを破り、逆に芸州側に攻め入った。前に第2番の法泉寺を訪ねた時にも触れたが、西国街道の宿場町だった玖波の町が焼かれたのはこの時である。
和木駅に到着。大竹と岩国の間に2008年に新設された駅である。和木町は重化学工業が町の主要産業として栄えていて、小さいながらも岩国市と合併することもなく独立して存在する。そして新たに駅もできたわけだ。