まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第25番「播州清水寺」~西国三十三ヶ所巡り・13(本当はこちらが清水寺の元祖)

2015年02月03日 | 西国三十三所
播州清水寺に到着。バスの出発はおよそ1時間後で、バスは私を降ろすと一旦引き上げる。下の駐車場あたりで待機するのだろう。

朱塗りの仁王門が新しい感じがするが、清水寺自体は今から1800年前に法道上人が創建したとされる古刹である。法道上人は、インドから雲に乗ってやってきたとか、鉄の鉢を飛ばしてお布施を得ていたとかいう伝説の人物。もちろん1800年前には日本に仏教は伝わっておらず、法道上人が創建したというのはあくまで伝説とされているのだが、以前に参詣した、同じく法道上人が創建したとされる一乗寺も含めて、播州地域に有力な仏教者や仏教の支援者がいたということだろう。

清水寺は1913年に境内が全焼し、建物のほぼ全てがそれ以降の再建である。仁王門はその後再建されたものの台風で全壊し、現在の建物は場所を移して1980年にまたまた再建されたものである。入山料を取る参道や広い駐車場もおそらくその時に整備し、クルマの参詣者を迎えるという意味で仁王門も移したのだろう。

雪が薄っすらと積もる境内を歩くとまず出てくるのが1984年再建の薬師堂。こちらはいわゆる「薬師グループ」ということで、薬師如来とそれを囲む十二神将が出迎える。

その十二神将、「これは仏像か?」とうなる造りである。壁にかけられた鏡から飛び出してきたような姿で、十二支を「かたどった」というよりは「キャラクター化した」というほうが当たっているように思う。この十二神将を制作した薮内佐斗司氏。あの平城遷都1300年祭で話題をさらった「せんとくん」の作者である。そう言われれば、これらの十二神将の中に「せんとくん」のようなキャラがいても不思議でないように見える。

続いて大講堂へ。こちらは一番上にある根本中堂とともに1917年の再建。比較的早くに再興したということだろう。そのため建物も古く見える。風が入るためか中には扉を開けて入る。こちらには千手観音の坐像が祀られている。写経は先の花山院の分しか持って来なかったので、ここでは読経だけでの納経とする。また100円で内陣に入ることができ、ご朱印をいただいた後で中を一周する。裏手に宝物や古文書がいろいろと展示されている。赤松氏範の自刃という文書がある。赤松氏といえば南北朝の時代から播磨に勢力を張った一族だが、この氏範という人は将軍義満の頃に、一族内での争いで敗れ、ここ清水寺で自刃したという。その墓とされるところもある。

外に出ると矢印があり、淡路島に明石海峡大橋が見えるとある。写真ではわかりにくいが、ちょうど晴れてきた空、矢印の方向を見ると、確かに橋脚らしきものが見える。とするとその向こうでこんもりした陸地が淡路島である。先の花山院もそうだったが、この日の参詣はいずれも山からの眺望が楽しめる。

さらに石段を上がり、天台宗で本堂を意味する根本中堂へ。こちらの十一面観音が清水寺の本尊だが、朱印やら縁起物の取り扱いなと、係りの人が対応するのは大講堂で、あたかもそちらが本堂のような扱いだ。般若心経は大講堂で唱えたが、やはり本尊がこちらならということでもう一回。根本中堂には人がおらず、戸を閉めて座布団の上で私一人貸し切りである。

この根本中堂に絵馬が奉納されている。奉納者の名前を見ると、何と私と同じ藤井寺市とある。ネット検索で昔のニュース記事の紹介文を見てわかったのが、奉納者の川林さんというのは藤井寺市在住の画家で、ある年台湾の寺院を巡るツアーで清水寺の住職と意気投合し、それ以来絵馬を奉納しているのだとか。これも、西国札所の縁だろう。

さらに進むと、清水寺の名前の由来となった井戸がある。創建したとされる法道上人が山神に祈ったところ涌き出たとか。井戸を覗いて自分の顔が映れば寿命が3年延びるというのでやってみる。どうにか映った。これで多少は平均に近づけるかな・・・?

さて、ここまで来たところでバスの時間も気になることで、次の札所選びの時間である。そんな、くじ引きとサイコロで次の巡礼先を選ぶなんて、花山院が聞いたら怒られることだろうが・・・。

1.東山・・・今熊野観音寺、清水寺、六波羅蜜寺

2.洛中・・・六角堂頂法寺、革堂行願寺

3.和歌山・・・紀三井寺、粉河寺

4.近江・・・長命寺、観音正寺

5.亀岡・・・穴太寺

6.那智勝浦・・・青岸渡寺

・・・これまで一度も出ない京都府内の目も多く、次こそはの期待は大きいが、一方で一度訪れ、「納経軸の仕上げのため」にもう一度行くことになる和歌山グループが2つとも来ている。花山院が聞いたら(以下略)。

そしてサイコロは・・・6。思わず、「ひょえっ!」と心の声が出る。ここで来た那智山。前回は巡礼バスツアーで出かけたが、今度はどうやって行くかがまた考えどころである。

仁王門に戻る。14時50分発の本日最終バスの乗客はやはり私一人である(逆に、ここで他に乗客がいたほうがびっくりするが)。

それでも、途中ウトウトしながら走るうちに、途中のバス停から乗ってくる人もいて、相野駅に着いた時には5人にまで膨れ上がった。駅でJRの西国三十三所巡りキャンペーンのスタンプ台紙に押してもらう。駅のスタンプは11個目。ちょうど、3分の1である。

花山院と播州清水寺、いずれも西国巡りをしなければおそらく生涯訪れることはなかっただろう。ただでさえ、この三田から加東のエリアは、ゴルフ場のイメージしかなかったので・・・(バスに乗っていても、交差点ではゴルフ場への案内看板が多かったし、特に清水寺は、人によっては「○○ゴルフ場から何キロ」と言ったほうが場所がわかりやすい感じ)。

もう一つの、なかなか行けない関西を体感できるのも西国巡りの面白さということで・・・・。
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第25番「播州清水寺」~西国三十三ヶ所巡り・13(ローカルバスの終点へ)

2015年02月02日 | 西国三十三所
相野に到着する。下車するのは初めてだが、新三田から先の区間ではあるが自動改札もあるし、駅員も複数いる。時間限定だが売店もある。なかなか利用の多そうな駅だ。

清水寺へ行くバスに接続するより1本早い列車で着いたので駅前を少し歩く。出口と反対側に少し離れたところに高校や短大の建物が見える。ただ駅周辺はと言えば、コンビニやスーパーの類いはなく、のどかな田園風景である。三田駅で昼食にしてよかった。国道を少し歩くと三田牛の看板が見える。レストランではなく本当の肉屋で、入口には何かの賞状が飾られている。ちょっと土産に・・・とはいかない。

相野駅のバス乗り場は鉄道の始発駅のように櫛型の番線に分かれている。折り返しでやって来たバスは先に乗客を降ろし、バックで番線に入る。その様子を見ようとしたが、こんな時にトイレを催す。清水寺までそれなりに時間がかかるし、ましてや12時50分の最終バスを逃したらアウトである。慌てて、駅員に声をかけて駅のトイレを借用する。

何とか間に合い、また降りだした雪の中を出発。乗客は私とお婆さん一人。そのお婆さんも携帯に電話がかかり、「バス乗れたから今から帰るわ」と話していたから地元の人だ。オフシーズンということもあるのだろうが、参拝での乗客が一人というのは、ローカル線度は濃い。今は「オレ一人で列車(バス)貸し切りや!」と、まだ子どもみたいに喜べるが、あまりにも利用が少なければさらなる減便(それこそ「バスは1日一度来る」の吉幾三の世界)、ひいては路線そのものの廃止となる恐れがある。駅から歩くには遠すぎるし、公共交通機関で西国札所巡りをする人たちにとっては厳しいところである。

バスが走るうちに、「丹波焼」「立杭焼」の看板が増えてきた。丹波焼というのも伝統ある芸術・・・と思うが、バスが三田市から篠山市に入ったのに気づく。篠山市の今田(こんだ)地区。まさか丹波篠山という言葉が出るとは思わなかった。相野は北摂の三田にあり、清水寺は播州の加東市にある。そこに丹波篠山とは、昔なら3つの国を又にかけることになる路線バスである。だからどうしたというわけではないが・・・。

丹波焼の窯元の看板が多数見える。上り窯が組まれているのも独特だ。陶芸美術館のバス停を経由する。清水寺へのバスは1日2本だが、陶芸美術館にはもう2本ある。1日費やすプランなら、清水寺と陶芸美術館を楽しむことはできそうだ。

そんな中、陶芸美術館の対抗馬になりそうなのが「こんだ薬師温泉」。ここは日帰り入浴施設で、バス停は建物のすぐ前にあるが、ほとんどがクルマでの来館。結構賑わっている。施設も整っているようで、1日費やすプランなら・・・(以下略)。

何だか、陶芸美術館、薬師温泉、そして清水寺を無理やりくっつけたようなバス路線である。その実、バスの利用はどのくらいあるのやら。そんなことを思ううちに、お婆さんは平木バス停で下車。ちょうど加東市、すなわち丹波から播磨に入ったところである。

次が清水バス停。ここが清水寺への玄関口で、そもそもはここでバスもクルマも降りて、山道を登って参拝するものだったそうだ。ただ、それでは不便ということで、寺のほうで3キロの道路を造った。そして、ここを通るのに道路維持費として500円を徴収するとしている。

播州清水寺のすごいのは、これを「1台500円」としたのではなく、「大人一人500円」としたことである。まあ、実質500円の拝観料を麓で徴収するようなものだろう。その上で、山道を歩いて上る人は実質タダの扱いで・・・。午前に訪れた花山院も同じような扱いである。路線バスで参拝に来た人もしっかり徴収される。

そのシステムは・・・まずバス車内に料金を提示し、麓の清水バス停でも放送で案内する。その上で運転手が人数を確認する。この時は運転手が私のほうを振り返って指を1本立て、「お一人様で~す」と無線なのかマイクなのかで声を出して、高速道路の料金所のようなゲートに着く。そして専用道をグネグネと走って、朱塗りの山門前の駐車場に到着した。

相野駅から清水寺までのバス運賃は580円。神姫バスはPiTaPaで精算できるので、まずはそれでピッとやる。その後で「入山料も、そちらで引かせてもらっていいですか?」という運転手の声で、それもPiTaPaで決済。運転手というか、神姫バスが一旦入山料を立て替えて、それを乗客から徴収するというものである。便利なのか不便なのか、よくわからない。ただこうした決済というのは播州清水寺独特のものなのかなと、面白さを感じる。精算後は運転手から清水寺のパンフレットが渡される。

前置きが長くなった。これから、境内に入る・・・・。
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番外2「花山院」~西国三十三ヶ所巡り・12(花山院、尼寺)

2015年02月02日 | 西国三十三所
2015年、最初の西国三十三所巡りである。

いや、正確に言えば最初ではない。先日私の後厄の厄除けということで地元・葛井寺に行き、祈願を行った。順番を待つ間に、外陣から般若心経の読経の声が聞こえてくる。先達さんに連れられた巡礼ツアーのようだ。私も昨年の夏に葛井寺から西国巡りを始め、それから般若心経に関する書籍で少しずつその言わんとするところを学ぼうとしているのだが、これがなかなか難しいところである。

さて、前回の興福寺南円堂でのくじ引きとサイコロで決まったのが、25番の播州清水寺と番外の花山院。それぞれJRの相野、三田からバスで訪れるということで、名づけるなら「福知山線シリーズ」である。福知山線なら中山寺も通るのでは?とお気づきの方もいるだろうが、こちらは阪急電車のイメージが強く、箕面の勝尾寺とのグループに入れている。

この2つの組み合わせで訪れる場合、プランニングで最も考慮しなければならないのが清水寺へのアクセス。ものの本には「相野駅からバスで35分」とさらっと書いているが、そのバスというのが曜日問わず1日2本しかないのである。相野駅発10時20分、12時50分の2本だけ。12時50分が最終バスってどないやねんと思うが、ここを軸に組むしかない。三田から花山院へのバスは1時間~1時間半に1本あり、所要時間も15分ほどということでまだ何とかなる。

あれこれ考えたところで、大阪からの道順通りまず三田で下車してバスで花山院へ。三田に戻り昼食後、相野へ移動。12時50分の最終バスで清水寺に向かうことにする。清水寺から戻るバス(もちろん、これも最終バス)まで1時間あまりあるので、参拝には十分だろう。

朝の三田駅に到着。8時23分発の乙原バレー行きのバスの時間まで少しあるので駅前を歩く。大阪のベッドタウンのイメージがあるが古い建物や寺も結構集まっている。ただ歩く中、雪が舞ってきた。このくらいなら傘を差すほどでもないので、降るなら雨より雪のほうがまだましだが、この先天気は大丈夫だろうか。

バスは学生で満員となり発車。途中城山公園のバス停を過ぎる。「がんばれ 兵庫ブルーサンダース」という文字が見える。兵庫ブルーサンダース・・・そういえば野球の関西独立リーグって、まだ活動していたんだな。リーグができた初年度こそ何試合か観戦したが、他の独立リーグのような地域密着性もほとんど見ることがなかったし、運営を巡るゴタゴタや、選手が野球賭博に関与して逮捕されたりしてイメージもよくなかった。チームも加入、脱退が繰り返され、正直今どのチームがどうなっているのかわけがわからない。でも「ブルーサンダース」が「三田」の球団として存在しているのは確かである。自動販売機にも「がんばれ」の文字があり、売り上げの一部を運営資金に充てるというものがあった。ちなみに、明治大学から今年のオリックス・バファローズのドラフト1位で指名された山崎福也投手の父親は、この球団の監督を務める山崎章弘氏である。

中央病院のバス停で学生が全員降り、残ったのは私ともう2人だけ。どう見ても西国巡りとは思えず、花山院のバス停で下車したのは私だけ。ここから徒歩25分である。

この花山院は、西国巡礼を世に広めることとなった花山法皇が晩年を過ごしたところである。本尊が薬師如来ということもあってか西国の札所には入っていないが、昔の人たちは巡礼の成就を願うためにまずこの花山院の菩提寺に参拝したという。現在は正式な番外札所である。

西国巡礼をしている人たちのブログ等を見ることがあるのだが、この花山院については「厳しい」「怒られる」「うるさい」という内容の記述が見られる。それを読んでいくと「納経せずに朱印帳を持っていったら小言を言われる」とか「マナーにうるさい」というものである。最近「朱印集め」がブームとかで、「ご朱印ガール」なる女性も増加しているそうだが、スタンプラリー感覚で朱印帳を出したらクギを刺されるという噂もある。私は各札所で般若心経等を読んでいるが、今回は写経用紙を買い求め、当日起床後にヘタクソな字で人生初の写経を行い、それを持参してきた。

さて花山院への道だが、これが急な坂である。登り口のところに杖が何本か用意されている。まあ大丈夫だろうと登り始めるが、上から道がかぶさってくるような感じがする。この先は花山院の私道で、クルマでの参拝者には参道の維持費として500円徴収するとある。クルマで行くにしてもギアをローにしないと上がれないくらいの勾配がある。大型の観光バスは入れないようだ。

朝から雪が降っていたようで、周りの木の枝葉にもうっすらと積もっている。道標の石碑がある。上までは八丁あるとか。そこまで石段が続くのもつらいが、花山院のように舗装の坂道が続くのも結構脚に来る。

この坂は「琴弾坂」という。かつて花山法皇に仕えていた女性たちが法皇を慕ってこの花山院までやって来た。寺は女人禁制で入れないことから麓に庵を結んで住み、この坂で琴を弾いて法皇を慰めたという言い伝えがある。

息を切らしながら20分ほどで登りきる。上では道路補強の工事関係者はいたが、参拝者は私だけ。山門をくぐり石段をもう少し上がると、寺の方が境内の清掃中で挨拶する。

まずは本堂である花山法皇殿にお参りする。中には花山法皇の像が安置されているが、ガラス戸が閉まっており中の様子はうかがえない。ここで一連の読経を行う。

これに隣り合って本尊の薬師如来のいる薬師堂がある。こちらは「西国薬師第二十一番霊場」の札がかけられており、薬師巡りでは札所の一つとなっている。うーん、最近目にする「薬師霊場巡り」、またいつの日か、そのためにここに来ることがあるかもしれない。

その奥には「幸せの七地蔵」という、最近できたらしい地蔵が7体並ぶ。それぞれが右手をこちらに差し出しており、握手することでさまざまな力を得ることができるという。ただこの寒さ、地蔵の肩にも雪が乗っている。握る手は冷たい・・・・。

それらを背にする形で花山法皇の御廟所がある。方向としては南面を向いているということでいいのかな。

境内で見るべきものはこのくらいで、山の上のためか規模としてはコンパクトである。ただ、ここは大勢で賑やかに訪れるよりは、ひっそりと訪れるのが似合っているようだ。前半生は藤原氏の政争に巻き込まれ、無理やり出家させられた後の半生は仏道修行に打ち込み、後に西国巡りの開祖的な人物として名を残した花山法皇の波乱の人生に思いを馳せるのもよい。

山の上に来たからか、眺めは良い。展望スペースが整備されており、左下には有馬富士、右下に千丈寺湖を見て、その向こうには三田市街、さらに遠くには薄っすらとであるが播磨灘を見ることができる。晴れていれば家島諸島や小豆島も見えるそうだが、寒々しい雲が広がっているかと思うとまた雪がちらついてきた。ここで朱印をいただくことにする。

寺務所の窓が開いて、先ほどの人が出てきた。写経用紙を差し出すと私の名前の読みを確認し、「明日の朝のお勤めで住職にお名前を読んでいただき、お納めさせていただきます」と。住所は市までしか書かなかったが、詳しい番地まで書くと後日証明のはがきが送られて来るそうだ。

朱印帳と納経軸に書いていただく間にも雪が激しくなってきた。話によると花山院でも年に2~3回くらいは雪が積もるそうだが、それも2月頃のこと。ただ今年は正月も雪になり、元日夕方からの雪のため翌2日はここまでクルマが上がれなかったという。「清水寺さんも、上がれるとは思いますが積もっているでしょうねえ」とのこと。最後は軸にもドライヤーを当て、しまうところまでやっていただき、「この寒い中、よくお参りくださいました」と丁寧に返していただく。ネットやブログ記事にある「うるさい」「怒られる」という対応はなかった。

・・・その心は、本堂に「ご自由にお持ちください」とあった「巡礼者への法話」という用紙にある。一部を引用すると・・・

「納経は文字が示すとおりに写経を奉納する事です。(中略)納経を受けたお寺はその写経を供養しますので、そのお布施として納経料をお受けします。故に納経料もその文字の如く納経された写経供養のお布施であって印代や揮毫料ではありません。また納経帳、納経軸も本当の意味はその文字が示すとおり納経した証しの印を頂くもので参拝記念の為という意味ではありません。(中略)お寺も写経を納経して頂くと、それに記載された巡礼者の為に名前と願い事を読み上げてお祈りをするという本来の仕事が出来ます」

「しかし人によっては礼儀作法などお構いなく、後でお詣りをするからと言ってご本尊に一礼もせず朱印を頂きに行ったり、また本堂前に来てまず最初にする事が礼拝ではなく写真やビデオを撮る人達がいます。ただその人が純粋に観光ならそれでいいのですが、もしその人が巡礼者として納経帳等にご本尊の御宝印のお授けを望む場合、寺や本尊に対する礼は不可欠です。本来寺社はお客を迎える観光施設ではなく信仰礼拝施設ですから、その意識をしっかりと持ってもらう為にそのような人達には寺社は毅然として教化をしなければなりません」

・・・なるほど、こう書かれると私も結構グサグサと来るものがある。そこには本来の巡礼とは何かをきちんと守り、かつ最近のスタンプラリー感覚でのご朱印集めに対して「それは違う」と毅然と対応する姿勢がうかがえる。だからうるさくなるのだろうが、一方では納経供養の証明を出すというのも「やるべきことはやっている」と筋が通っている。さすがは花山法皇ゆかりの寺院である。

ここで、これまで訪れた札所の中で「さあ、どの仏さんのご朱印がいりますか?」という感じで対応していたところがあったのを思い出す。これはこれで仏教や寺院に親しみを持つきっかけとしてもらおうと(ちょっと商売っ気も交えながら)対応することでありとは思うが、本来の意味を知らずにスタンプ集めをするのと、意味をわかった上で納経するのとではありがたみが違うのは明らかだろう。西国巡礼も3分の1近くなったところで、これも一つ学んだことである。

帰りは下り道。坂道を滑らないように気をつけながら歩く。これまでにも下りの坂道で左膝の後ろにピリッと来ることがあったが、この日は何とか持った。参拝が早く済んだため、予定していた帰りのバスまで時間はたっぷりある。少し戻ったところに先ほどの花山法皇に仕えた女性たちの墓があるというので行ってみる。尼寺(にんじ)集落の中にひっそりと墓石が並ぶ様子は、本降りとなってきた雪のせいもあってか、寒い中を肩を寄せ合っているようにも見える。

予定していたより1本早いバスに乗ることもできるが、次の播州清水寺に行くバスの時間は決まっており、それまで時間を持て余すことになる。ならばということで三田駅方面に向けて歩く。さすがに雪が強くなってきたので折り畳み傘を広げる。

ここからは有馬富士公園が近い。会社のレクリェーション行事でこの公園を訪れたことがある。その有馬富士も雪化粧である。

時間調整に選んだのは有馬富士公園ではなく、行きのバスの車内で見つけた「天然温泉 有馬富士 花山乃湯」。ゴルフ練習場に温泉が併設された形で日帰り入浴施設がある。花山院の名前がついているのも面白いし、参拝後の温泉というのもオツなものだ(・・・会社の人から見れば、「参拝よりゴルフ練習は?」と突っ込まれそうだが)。

露天風呂もあり、ちらつく雪を見ながらの入浴と思ったが、天気の移り変わりが激しい。服を脱いだり身体を洗ったりしている間に雪は止み、青空も見えてきた。この後も雪が降ったり止んだりと天候が目まぐるしく変わる。

入浴を済ませてしばらく休憩室で休むが、もう少し歩こうかと思う。有馬富士を右に見ながら歩くうち、成合口のバス停まで戻ってきた。ここは他の系統のバスも停まるところで、予定していたバスより10分早い便に乗れた。三田駅に戻って駅横の定食屋で昼食として、次の播州清水寺に向かうべく、相野駅まで丹波路快速に揺られる・・・・。
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安佐南区・八木地区

2015年02月01日 | 旅行記F・中国
可部線で可部に到着。さてここから八木に向かうが、折り返しの電車が出たばかりなのと、八木4丁目へは駅から少し離れていることもあり、国道54号線を走るバスに乗る。

新太田川橋のバス停で下車。あえて歩いて橋を渡る。雪が降ってきた。寒い。国道からも土砂崩れの跡が見え、復旧工事の最中である。確か豪雨があったのは8月20日、訪れた1月2日は4ヶ月以上経過した時期だが、もうそんなに経ったのかと思う。地元メディアはともかく、関西では広島の豪雨災害や復興のニュースに接することは全くといっていいほどない。

八木6丁目を歩く。県営住宅が立ち並ぶところだが一戸建ての家もある。そこで歯抜けのように更地になっているところがあり、ここが被災したのだなと感じさせる。門柱や塀の一部だけが残っている家があるが、これはあえて残しているのだろうか。ここに我が家があったという意味合いとか。

山に沿って八木4丁目に入る。地図で言えば40番地台だが、そこに広がる泥色の景色を見て唖然とした。山を切り開く形で、傾斜を利用してガレージを掘り、その上に家があったことをうかがわせる。帰宅後にネットで航空写真地図を見たが、さまざまな色の屋根の家が並んでいた。それが全部なくなっている。家によっては花が手向けられている。住んでいた方が亡くなったのだろう。私も手を合わせる。

犬の迷子を捜す立札が倒れている。「ここが自宅だったので戻って来るかもしれません」とある。犬も流されてしまったのか。

昨年の12月25日限りで、安佐南区内に設けられていた避難所は全て解消された。避難していた人が全員避難所から出たからだというが、県営住宅、市営住宅での受け入れがなされているとはいうものの、やはり自分の家を失ったというやるせなさはあるだろう。

流された家、無事に残った家、ほんのちょっとした差である。私は当事者でないから両者の思いを理解できるものではないが、流された家に隣接して残った家の方も複雑な気持ちであろう。

天皇皇后両陛下も広島を訪問し祈りを捧げられたが、最初はそれがどこなのか探してみようと思ったが、そんなことはどうでもよくなった。

段々と線路近くまで下りてくる。神社があり自然とそちらに足が向かう。境内の横の方も未だに土嚢やブルーシートがあり、その向こうにあるはずの家が消えている。

拝殿にて参拝する。光廣神社。八木の土地の守り神である。毛利元就が鶴岡八幡宮から招いた八幡神を祀る。この神社には「大蛇の首をはねた武将・香川勝雄」の伝説がある。八木の奥にある阿武山に大蛇が住んでいて、人里におりてきて人々に害を与えるのでこれを退治することになった。18歳の武将・香川勝雄が大蛇に立ち向かい、大蛇の首をはねた。斬られた大蛇の首が落ち、血が川のように流れ、最後は沼ができて沈んだ。

こうした伝説もあり、かつて八木地区は「八木蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」と呼ばれていたとか。先ほどの大蛇は「水害」を意味するものだといわれている。蛇が落ちてくるように水の流れ道があったということだろう。大蛇退治は水害を収めるということで、武将はそれに尽力したとか、あるいは人身御供のようなことになったとか、そういう言い伝えなのだろう。

この豪雨災害の直後に「元々そういう地名がつくくらい水害の多いところなのに、開発するにあたって『八木上楽地芦谷』に変わり、そして今はただの『八木』になったという歴史がある」ということがテレビで紹介された。地名に土砂崩れの危険や教訓が含まれているというのに、地名を「イメージのいいもの」に変えたためにその歴史が忘れ去られた、というもの。東日本大震災の津波の時にも言われた「先人の知恵を活かせなかった」というやつである。

なるほどそうかと思うが、一方では「古地図や古文書を見てもそういう地名は出てこない」という声もある。豪雨水害があったから無理にこじつけているのではないかと。こうなると本当はどうなのかわからない。現実としては防災、減災の対策をどうするということしかないのではと思う。

そろそろ大阪に戻る列車の時間も気になってきたので、梅林駅から広島行きにて八木地区を後にする。あの更地はこの先どうなるのか。また、その時が来れば訪れることもあるだろう。また雪が激しくなり、このままどんどん積もっていきそうな勢いだ。

広島から岡山、相生と乗り継ぐ。夕食は広島駅でいろいろ買って、車内で取ることに。そのうちの一つがシンプルな駅弁の「かき飯」。味がよく染み込んでいてなかなかよかった。

いろいろと悪天候に見舞われて結構疲れたが、考えることも多い旅であった・・・・。
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