まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第26番「無動寺」~近畿三十六不動めぐり・9(阿闍梨による祈祷と加持)

2017年12月12日 | 近畿三十六不動
比叡山の無動寺谷に向かう。

比叡山の中には延暦寺を中心として、山間や谷に多くの塔頭寺院があるが、これから訪ねる無動寺はそのうちの一つで、エリアとしては東塔の一部になるが、別格「南山」という呼び方もあるそうだ。この寺を開いたのは先の記事でも触れた相応和尚であるが、一時は東塔、西塔、横川と並ぶほどの発言力を持っていたという。

その無動寺には比叡山のケーブル駅から下り坂を行くが、まず出迎えるのは鳥居と狛犬。その鳥居の扁額には「弁財天」の文字がある。寺の一角に鳥居があることを不思議に思う方も多いだろうが、かつての神仏習合というものがこうした形で残っていると知れば納得されるのではないかと思う。ともかく、無動寺を目指して坂をひたすらに下る。行きは下りだから楽勝かなという感じだが、帰りは同じ道を上ってこなければならないと思うと、あまり喜んでもいられない。

さて、前の記事で「無動寺には11時目処で訪ねる」と書いた。ネットで知ったことだが、無動寺の本堂に当たる明王堂では、毎日11時から護摩を焚いたご祈祷が行われるという。それだけなら、まあよくあることかなと思うところだが、その祈祷を執り行うのが阿闍梨だというから、これは行ってみなければとなる。

比叡山には天台宗としてもっとも厳しい修行とされる千日回峰行というものがある。それを平安時代に確立したとされるのが相応和尚というわけだ。比叡山内のあらゆるお堂や石仏など、あらゆるものに祈りを捧げながら山内の約30キロの道のりを700日歩き回る。その後で「堂入り」として、9日間にわたり、断食、断水、断眠、断臥という4つの「無行」に入る。その「堂入り」の「堂」というのが、これから行く明王堂である。この4つの無行に耐えた者は阿闍梨として、生身の不動明王とも言われる。その後の200日は広く大衆を救うための修行として、赤山禅院までの往復や、京都市内を回るとか、歩き回る範囲も広がる。そして千日回峰行の満了となる。これだけ聞くと、四国遍路の修行とはまた別のストイックなものを感じる。

そしてたどり着いた無動寺の明王堂。時刻は10時40分ほど。まずはお堂の外観を見る。脇には不動明王の功徳として「聖不動経」の読み下し文が紹介されている。近畿三十六不動めぐりでは般若心経の後に唱えるものだが、他のお経と違ってこれだけが読み下しになっているのは何か由来があるのだろうか。また本堂の右手には「建立大師」として、回峰行の修行姿の相応和尚の石像が祀られている。

ここから眺める琵琶湖、大津の市街地というのもなかなかのものである。

明王堂の正面には「中に入ってお参りください」との表示もある。障子の前には何足もの靴が並べられていて、そっと障子を開けると10人ほどの人が座っている。阿闍梨による祈祷を待っている人たちだ。私も後ろの空いているところに座らせていただく。ホットカーペットが敷かれ、ストーブも焚かれている。左手には寺の人がいて、参詣者の護摩木の奉納など受け付けている。今来ている人たちはこれまでも何度もお参りして勝手知ったる人たちばかりだろう。

外陣の一角に経本が積み上げられている。阿闍梨による護摩修法だから経本に従って執り行うのかと思い、それを一冊借りて手元に置いていると、寺の人がやって来て「今日から阿闍梨様が替わりまして、今度の阿闍梨様は経本いりまへん。(般若)心経だけでさしてもらいますよって」と、経本を回収して回る。昨日の阿闍梨と今日の阿闍梨の違いがわからないので、そうですかと返す。般若心経は私の手持ちの経本で十分だが、それがわからない人はどうなるのかなと気になる。そんな中、後から訪ねる人もいて、合わせて20人ほどが外陣に座ることになった。

11時前になり、まずは若い僧侶がやって来る。これから阿闍梨による護摩修法を始めるとの説明があり、阿闍梨が来るまでに不動明王の真言を唱えるようにと言われる。その僧侶のリードで手を合わせて不動明王の真言を繰り返す。この真言、真言宗と天台宗ではカナ書きにすると少しずつ異なる。微妙な発音の違いであり、これも何度も繰り返して唱えるとその差ははっきりしなくなる。

そうする内に正面の障子が開き、白装束の僧侶が入ってくる。こちらが阿闍梨。私よりも若い。比叡山で千日回峰行を修めた阿闍梨といえば限られた人で、ネットを見ても「○○大阿闍梨」と名前が出ているのだが、この日名前を紹介されたわけでもないので、誰だったかという詮索は行わない。ともかくありがたい方ということで、その修法を見守ることにする。

阿闍梨の祈祷の言葉があり、その後で般若心経を唱える。そして阿闍梨の祈祷の作法が続く中、外陣にいる人たちはひたすら不動明王の真言である。私もちらちらと阿闍梨の作法の様子に視線を送りながらの不動明王真言である。もちろん、カメラを向けようということにはならない。

30分ほどそのような感じだったか、修法が終わったようで不動明王真言も終わる。それまで本尊不動明王に対峙していた阿闍梨がこちらに向き直し、これから加持を行うという。その間参詣者たちは頭を下げてそれを受ける。経本の一節、真言、祝詞が混ざる独特の言い回しで、声に力強さ、迫力を感じる。これは(生身の)不動明王自らの加持である。最後に、参詣者一人一人の頭と両肩を数珠でなでる。素直にありがたさの気持ちが湧いてくる。

合わせて45分ほどの祈祷、加持を終えて阿闍梨は明王堂を出る。これで毎日の修法は終わりということで貴重な時間を過ごせたかと思ううち、寺の人から「お食事を用意していますので、石段を下りてお進みください」との案内がある。食事??これは無動寺からの「お接待」だそうで、修法に参加した人なら誰でも受けられるそうだ。何でも先ほど修法を行った阿闍梨も同席するというが、さすがにそれは恐れ多い。何度も来ている熱心な方ならともかく、一見さんで食事にありつこうというのは、何か違うのではと思う。

参詣者の中でも、食事に行く人とそうでない人が分かれているようだ。お礼の言葉だけ言って食事は辞退するのも全く問題ないようなので、私もそうさせていただく。辞去する前に、明王堂の中で近畿三十六不動のバインダー式のご朱印をいただき、先ほどの修法で護摩木を焚いた後の煙に、手持ちの数珠をかざしていただく。先ほどの修法と合わせて、貴重な一時を過ごさせていただいてありがたい気持ちだ。

これで明王堂を後にして、先ほど鳥居にも扁額があった弁財天もお参りする。さらに坂道を下ったところに弁財天を祀るお堂がある。こちらでも一通りお参りとする。

さて、明王堂での修法の雰囲気の中で、次に行くところを決めていなかったことに気づく。明王堂と弁財天の分岐のところで立ち止まり、ここでサイコロということにする。くじ引きで選択肢となったのは・・・

1.竹田(不動院)

2.吉野(如意輪寺)

3.神戸北(鏑射寺)

4.左京(曼殊院)

5.豊中宝塚(不動寺、中山寺)

6.山科(岩屋寺)

いずれにしてもスケジュール的に年明け以降のお参りになると思うが、この中でサイコロの目は・・・「1」。京都市南部の竹田である。竹田というところも鉄道で通るだけで降りたことがなく、どういうところなのか楽しみである。また新たな年に訪ねることにする。

これで無動寺は終わりということで、来た道を今度は上り坂でケーブル駅に戻る。時刻は12時を回ったところで、これから西塔に向かうことにして、その前に昼食とする。食事なら先ほどの無動寺のお接待にありつけば、阿闍梨との会話込みということで得だったと思うが、やはり自分で注文するほうがいいかなと思う。結局は東塔エリア内の休憩所での鶴喜そばということになるが、比叡山での食事はこれで十分。

さてここからは、「ちょこっと関西歴史たび」の舞台である西塔へ向かう・・・。
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