菊間は昔から瓦の生産が盛んなところで、駅舎も瓦屋根の屋敷をイメージした造りである。予定ではここで1時間近くの途中下車の後、次の列車で大西駅まで向かい、そこから第54番の延命寺まで歩くことにしている。ただ、見どころとしては菊間の瓦と番外霊場の遍照院である。ちょっと急ぎ足になるかな。
まずは瓦についてのスポットということで、「かわら館」に向かう。ちょうど駅の山手側に見える。今治方面のホームから跨線橋を渡り反対側のホームに出ると改札口のない出口があり、そこから出ればすぐに建物の前である。いきなり鬼瓦のお出迎えである。また、玄関には愛媛出身力士の元・玉春日(現在の片男波親方)の顔をデザインした瓦がある。
こちらでは瓦造りの歴史や、現代の匠たちの作品が紹介されている。建物に入った時点で、「ここと遍照院で1時間だけというのは無理があるな」と思い直した。
菊間瓦の歴史は750年ほどあり、古くは伊予の河野氏の城にも使われたそうだ。原料の粘土や燃料の松葉に恵まれていて、温暖な気候で雨が少なく、自然の乾燥に適していたことに加えて、瀬戸内の海運を利用した輸送が便利だったことが瓦造りが発達した背景だという。その後、安土城築城の際に菊間を訪ねた一観上人により木型製法が伝えられた後で質の良い瓦の生産量が増えたという。江戸時代になると松山城や大山祗神社などの近隣の寺社でも使われていて、明治になると新たに造営する皇居にも納められた。皇室御用瓦としてのお墨付きの証が残されている。菊間瓦の製造組合によると、他の屋根材、瓦と比べても、美観、耐久性、防水性、快適性、低価格という面で優れているとしている。
現在は再建されたり葺き替えられたりしたのだろうが、昔に使われていた瓦灯籠や、松山城や近隣の寺社の瓦などがさまざまに並ぶ。当時のものがよく残るものだなと思う。
展示品の一つに「被爆瓦」というのもある。広島の原爆被害に遭った建物の瓦は今でも川底や地中に数多く埋まっているそうだが、そのうちの1枚を広島の平和記念館から永久貸与という形でいただいたものだ。原爆の熱により火ぶくれして、一部が泡状になっているが、瓦の形はきちんととどめている。原爆(核)はあらゆるものを一瞬に溶かしたり、また爆風で建物も吹っ飛ばされた中でよく残ったものだなと思う。ここに展示されているからには菊間の瓦だろうが、それだけ丈夫なものだという現れと言える。
菊間瓦の伝統、技術は今でも受け継がれていて、鬼瓦などは芸術品の要素もある。また、遍照院では節分の日に大きな鬼瓦の御輿をかついで境内を回る厄除けの行事もあるそうだ。
最上階の4階に上がると、なぜかバイクがデンと据えられている。これも菊間瓦でできている・・・わけはなく、この階は地元出身の芸術家の展示コーナーである。このバイクをデザインした人が菊間の出身なのだという。
他にも、家族連れ向けのコーナーとして粘土細工による瓦造りの体験コーナーや、あるいは屋外が公園になっているのだが、このシーズンだからか、日曜日なのに訪ねていたのは私一人。ゆっくりと見ることができたのはよいがもう少し人出があってもいいよなあと思いつつ、かわら館を後にする。踏切を渡り、海沿いを走る国道196号線まで出て遍照院に向かう。
一応山門というのか、遍照院の標札が出ているのは国道に面した海側である。通常なら仁王像が並ぶ山門だが、ここは菊間ということで先ほどの大きな鬼瓦が門番をしている。これはこれで迫力があり、海のほうを向いてにらみを利かせている感じである。
遍照院の由緒は、弘法大師が42歳の時に四国を回った際、厄除けを祈願して自身の像を本尊として安置し、厄除けの秘法を残したことと伝えられている。近くの人たちには厄除け大師として親しまれており、四国札所としては、特に個人で回る場合は番外霊場の一つとしてお参りする人が多いそうだ。ということで、納経帳の朱印はいただかないとしても、弘法大師信仰の寺との一つとしてここはきちんとお参りしておこう。2日目の昼近い時間になってようやく白衣と輪袈裟を取り出す。寒いので上着の上から白衣をつける。こういう時、白衣は大きさを調節できるからいい。
境内にクルマが次々と入ってきて何だか慌ただしい感じの中、本堂の下でお勤めである。この本堂の鬼瓦ももちろん菊間の瓦である。一応本尊は聖観音像ということになっているが、実質は弘法大師を拝むところと言っていい。
さてこれで、松山と今治の間を鹿島と菊間の途中下車でつないだことになるが、ここからどうするか。菊間から12時すぎの列車で大西に移動するとして、それまでで昼食にするか。・・・とその前に、遍照院に隣接する駐車場に「菊間」と書かれたバス停がある。土日祝日は1日4便しかないが、せとうちバスの今治行きがここ始発で出ており、次が12時23分発とある。待ち時間はそれほどでもない。実はこのバス、延命寺に近いところを通るのでルート選びの候補にしていたのだが、ふと、始発であるここから乗ってしまおうかと思う。大西まで列車で行ってそこから歩くよりも早く着くし、また大西で少し待ってバスに乗るとして、乗るのは同じ便のバスである。そうしよう。
そうと決まれば食事ということで、ちょうど遍照院と同じ駐車場にコンビニがあるので何か買って遍照院のベンチで食べようかと思ったが、ふとその横に何だか小汚い感じのラーメン店があるのが目に入る。「1~3月限定 やくよけうどん やくよけラーメン」という看板もあるし、遍照院の真ん前にあるのだからきちんと商売しているのかなと思って、看板と幟に釣られて入る。店内は小汚ないが、年配の男性二人が切り盛りし、先客もいたのでなぜか安心。奥にある鍋ではおでんがぐつぐつ煮えているし、ビールは冷蔵庫からセルフで取る仕組みのようで、ラーメン店兼一杯飲み屋の感じ。
メニューを見ると「焼豚玉子飯」の文字が目に入る。元々今治の中華料理店の賄い飯だったものがいつしかメニュー化され、今では今治を代表するB級グルメとなっている。菊間も今治市ということで、それならラーメンとのセットで注文する。
そして出てきたのがこの一品。目玉焼きを2個乗せるのが決まりだそうだ。下にあるのはラーメンに入る焼き豚と同じもの。その下に海苔を敷いていて、甘めのタレがかかっている。皿の半分ずつ、玉子の黄身をつぶして焼き豚と混ぜていただくそうで、元々がシンプルな材料、作り方だから外れはない。ラーメン定食の付け合わせとしては堂々としたものだ。もっとも、今治に来て機会があれば食べればいいかなという感じで、焼豚玉子飯があるから今治に来よう、今治に泊まろう・・・とまでは思わせるほどではない。今治の味としては、やはり焼き鳥とか鯛料理のほうが気になる。
食事を終えた12時、バスまで時間があるから遍照院のベンチで待つことにして境内に戻ると、太鼓の音が聞こえてきた。本堂に行くと10数人の人が堂内に座っている。毎週日曜日の12時から定例の祈祷を行っているそうで、先ほどから境内に停まっていたクルマは祈祷を受ける人たちのものだったようだ。祈願文が読み上げられ、太鼓の音とともに各種お経、真言を唱える僧侶の声がマイクを通して聞こえてくる。15分ほど続いたが、結構真言のテンポが速かったように思う。
祈祷も終わったところで時計を見るとバスの時間も近くなり、今治方面からバスがやって来た。菊間が終点ということで、遍照院の駐車場で折り返す。土日祝日ダイヤでは1日4便しかない中での貴重な1本によくタイミングが合ったものだと思う。そんなダイヤだからか、乗り込んだのは私一人である。この先の国道は前回福山行きのバスで通った区間だが、こうした路線バスで行くのもまた違った感じがする。
しばらく走ると、左手に歩行者の姿。白衣姿、頭に巻いたタオル。朝方、三津浜から乗った列車で光洋台で下車した歩き遍路である。あれから5時間ほどが経過しているが、菊間まで来ていたのである。遍路道は途中海から離れて山越えとなる区間もあり、そうしたところもたどった健脚である。遍照院にはお参りしたのかどうかは気になるが、私が食事をしている間に通り過ぎたのだろう。
太陽石油のプラントの横を過ぎ、大西駅の近くを通過して国道から分岐する。ここからが新たに通るルートで、桜ヶ丘団地のバス停で下車。バス停のちょうど横から延命寺への遍路道が続く。バス停でもう一度白衣を羽織り、てくてく歩く。見た目は歩き遍路だが、その実は多くを列車、バスで移動した「単なる札所めぐり」ある。
桜ヶ丘団地のバス停からだと10分も経たないうちに延命寺の山門にさしかかる。1泊2日の行程で、2日目の午後になってようやく初めての札所である・・・。
まずは瓦についてのスポットということで、「かわら館」に向かう。ちょうど駅の山手側に見える。今治方面のホームから跨線橋を渡り反対側のホームに出ると改札口のない出口があり、そこから出ればすぐに建物の前である。いきなり鬼瓦のお出迎えである。また、玄関には愛媛出身力士の元・玉春日(現在の片男波親方)の顔をデザインした瓦がある。
こちらでは瓦造りの歴史や、現代の匠たちの作品が紹介されている。建物に入った時点で、「ここと遍照院で1時間だけというのは無理があるな」と思い直した。
菊間瓦の歴史は750年ほどあり、古くは伊予の河野氏の城にも使われたそうだ。原料の粘土や燃料の松葉に恵まれていて、温暖な気候で雨が少なく、自然の乾燥に適していたことに加えて、瀬戸内の海運を利用した輸送が便利だったことが瓦造りが発達した背景だという。その後、安土城築城の際に菊間を訪ねた一観上人により木型製法が伝えられた後で質の良い瓦の生産量が増えたという。江戸時代になると松山城や大山祗神社などの近隣の寺社でも使われていて、明治になると新たに造営する皇居にも納められた。皇室御用瓦としてのお墨付きの証が残されている。菊間瓦の製造組合によると、他の屋根材、瓦と比べても、美観、耐久性、防水性、快適性、低価格という面で優れているとしている。
現在は再建されたり葺き替えられたりしたのだろうが、昔に使われていた瓦灯籠や、松山城や近隣の寺社の瓦などがさまざまに並ぶ。当時のものがよく残るものだなと思う。
展示品の一つに「被爆瓦」というのもある。広島の原爆被害に遭った建物の瓦は今でも川底や地中に数多く埋まっているそうだが、そのうちの1枚を広島の平和記念館から永久貸与という形でいただいたものだ。原爆の熱により火ぶくれして、一部が泡状になっているが、瓦の形はきちんととどめている。原爆(核)はあらゆるものを一瞬に溶かしたり、また爆風で建物も吹っ飛ばされた中でよく残ったものだなと思う。ここに展示されているからには菊間の瓦だろうが、それだけ丈夫なものだという現れと言える。
菊間瓦の伝統、技術は今でも受け継がれていて、鬼瓦などは芸術品の要素もある。また、遍照院では節分の日に大きな鬼瓦の御輿をかついで境内を回る厄除けの行事もあるそうだ。
最上階の4階に上がると、なぜかバイクがデンと据えられている。これも菊間瓦でできている・・・わけはなく、この階は地元出身の芸術家の展示コーナーである。このバイクをデザインした人が菊間の出身なのだという。
他にも、家族連れ向けのコーナーとして粘土細工による瓦造りの体験コーナーや、あるいは屋外が公園になっているのだが、このシーズンだからか、日曜日なのに訪ねていたのは私一人。ゆっくりと見ることができたのはよいがもう少し人出があってもいいよなあと思いつつ、かわら館を後にする。踏切を渡り、海沿いを走る国道196号線まで出て遍照院に向かう。
一応山門というのか、遍照院の標札が出ているのは国道に面した海側である。通常なら仁王像が並ぶ山門だが、ここは菊間ということで先ほどの大きな鬼瓦が門番をしている。これはこれで迫力があり、海のほうを向いてにらみを利かせている感じである。
遍照院の由緒は、弘法大師が42歳の時に四国を回った際、厄除けを祈願して自身の像を本尊として安置し、厄除けの秘法を残したことと伝えられている。近くの人たちには厄除け大師として親しまれており、四国札所としては、特に個人で回る場合は番外霊場の一つとしてお参りする人が多いそうだ。ということで、納経帳の朱印はいただかないとしても、弘法大師信仰の寺との一つとしてここはきちんとお参りしておこう。2日目の昼近い時間になってようやく白衣と輪袈裟を取り出す。寒いので上着の上から白衣をつける。こういう時、白衣は大きさを調節できるからいい。
境内にクルマが次々と入ってきて何だか慌ただしい感じの中、本堂の下でお勤めである。この本堂の鬼瓦ももちろん菊間の瓦である。一応本尊は聖観音像ということになっているが、実質は弘法大師を拝むところと言っていい。
さてこれで、松山と今治の間を鹿島と菊間の途中下車でつないだことになるが、ここからどうするか。菊間から12時すぎの列車で大西に移動するとして、それまでで昼食にするか。・・・とその前に、遍照院に隣接する駐車場に「菊間」と書かれたバス停がある。土日祝日は1日4便しかないが、せとうちバスの今治行きがここ始発で出ており、次が12時23分発とある。待ち時間はそれほどでもない。実はこのバス、延命寺に近いところを通るのでルート選びの候補にしていたのだが、ふと、始発であるここから乗ってしまおうかと思う。大西まで列車で行ってそこから歩くよりも早く着くし、また大西で少し待ってバスに乗るとして、乗るのは同じ便のバスである。そうしよう。
そうと決まれば食事ということで、ちょうど遍照院と同じ駐車場にコンビニがあるので何か買って遍照院のベンチで食べようかと思ったが、ふとその横に何だか小汚い感じのラーメン店があるのが目に入る。「1~3月限定 やくよけうどん やくよけラーメン」という看板もあるし、遍照院の真ん前にあるのだからきちんと商売しているのかなと思って、看板と幟に釣られて入る。店内は小汚ないが、年配の男性二人が切り盛りし、先客もいたのでなぜか安心。奥にある鍋ではおでんがぐつぐつ煮えているし、ビールは冷蔵庫からセルフで取る仕組みのようで、ラーメン店兼一杯飲み屋の感じ。
メニューを見ると「焼豚玉子飯」の文字が目に入る。元々今治の中華料理店の賄い飯だったものがいつしかメニュー化され、今では今治を代表するB級グルメとなっている。菊間も今治市ということで、それならラーメンとのセットで注文する。
そして出てきたのがこの一品。目玉焼きを2個乗せるのが決まりだそうだ。下にあるのはラーメンに入る焼き豚と同じもの。その下に海苔を敷いていて、甘めのタレがかかっている。皿の半分ずつ、玉子の黄身をつぶして焼き豚と混ぜていただくそうで、元々がシンプルな材料、作り方だから外れはない。ラーメン定食の付け合わせとしては堂々としたものだ。もっとも、今治に来て機会があれば食べればいいかなという感じで、焼豚玉子飯があるから今治に来よう、今治に泊まろう・・・とまでは思わせるほどではない。今治の味としては、やはり焼き鳥とか鯛料理のほうが気になる。
食事を終えた12時、バスまで時間があるから遍照院のベンチで待つことにして境内に戻ると、太鼓の音が聞こえてきた。本堂に行くと10数人の人が堂内に座っている。毎週日曜日の12時から定例の祈祷を行っているそうで、先ほどから境内に停まっていたクルマは祈祷を受ける人たちのものだったようだ。祈願文が読み上げられ、太鼓の音とともに各種お経、真言を唱える僧侶の声がマイクを通して聞こえてくる。15分ほど続いたが、結構真言のテンポが速かったように思う。
祈祷も終わったところで時計を見るとバスの時間も近くなり、今治方面からバスがやって来た。菊間が終点ということで、遍照院の駐車場で折り返す。土日祝日ダイヤでは1日4便しかない中での貴重な1本によくタイミングが合ったものだと思う。そんなダイヤだからか、乗り込んだのは私一人である。この先の国道は前回福山行きのバスで通った区間だが、こうした路線バスで行くのもまた違った感じがする。
しばらく走ると、左手に歩行者の姿。白衣姿、頭に巻いたタオル。朝方、三津浜から乗った列車で光洋台で下車した歩き遍路である。あれから5時間ほどが経過しているが、菊間まで来ていたのである。遍路道は途中海から離れて山越えとなる区間もあり、そうしたところもたどった健脚である。遍照院にはお参りしたのかどうかは気になるが、私が食事をしている間に通り過ぎたのだろう。
太陽石油のプラントの横を過ぎ、大西駅の近くを通過して国道から分岐する。ここからが新たに通るルートで、桜ヶ丘団地のバス停で下車。バス停のちょうど横から延命寺への遍路道が続く。バス停でもう一度白衣を羽織り、てくてく歩く。見た目は歩き遍路だが、その実は多くを列車、バスで移動した「単なる札所めぐり」ある。
桜ヶ丘団地のバス停からだと10分も経たないうちに延命寺の山門にさしかかる。1泊2日の行程で、2日目の午後になってようやく初めての札所である・・・。