予讃線の途中下車と1日4便の路線バスを組み合わせてやってきた延命寺。寺の周りは田園に囲まれていて静かなたたずまいである。
まず山門があり、続いて中門がある。中門が小ぶりな感じだが、元々は今治城の門の一つで、天明年間にここに移されたのだという。
移されたといえば延命寺そのものも移されてこの場所にある。元々は聖武天皇の勅願で行基が不動明王を祀って開いたのが最初とされ(この「聖武天皇の勅願~行基が本尊を祀って開いた」という組み合わせ、このところ続いているように思う)、後に弘法大師が再興して円明寺と名づけられたとある。当時はここから6キロほど北に行った、海に近い近見山にあったそうだ。近見山は今では今治の街並みや、来島海峡、瀬戸内の島々を見下ろす展望台があることで観光スポットになっているが、五来重の『四国遍路の寺』によれば、古くからの海洋信仰にもとづき海が見えるところでの修行(辺地修行)を行ったところが後に札所になったというから、元々はそうした修行の地であったことがうかがえる。
円明寺は古くは多くの塔頭寺院を持っており、鎌倉時代には凝然という僧が「八宗綱要」という、当時の仏教の解説書のようなものを著したという。「八宗」というのは奈良時代の「倶舎」、「成実」、「律」、「法相」、「三論」、「華厳」の6つ、そして平安時代の「天台」と「真言」の2つを指す。当時にはある程度広まっていたはずの浄土宗や禅宗に関しては、まだ体系化するだけの内容がなかったのか、あるいは凝然のところまでは届かなかったのか、最後にさらりと触れる程度だったという。まあ、浄土宗や禅宗、あるいは日蓮宗も天台宗をベースにして生まれたもの、と考えれば、天台宗の説明で事が足りるという考えだったのかもしれない(読んだことがないので意図はわからないが)。
再三の戦火、火災に遭い、江戸中期の享保年間に現在のところに移転した。そして明治になると、隣の第53番の円明寺と同じ名前では混同してややこしいということで、現在の延命寺という名前に変わった。
中門をくぐると、薬師堂(元々は延命寺の奥ノ院だった)、納経所の前を通る。納経所の前には「納経はお参りの後で」という貼り紙がある。まず正面の本堂に向かう。こちらは不動明王が本尊で、このところ近畿三十六不動めぐりも並行しているので身近になっている仏である。再三の火災から逃れてきたことから「火伏せ不動尊」という愛称がある。まずはお勤めを一通り行うが、この記事を書きながら思ったのが、「聖不動経を唱えなかったなあ」というもの。それ用の経本を持ってこなかったのは仕方がない。
続いて石段を上がった上にある大師堂でもお勤めする。なお、大師堂の横に、1992に埋められたというタイムカプセルがある。開封するのは50年後の2042年と書かれているが、どのようなものが埋まっているのだろうか。
これで納経所に戻る。他にクルマで回っている人が何人かいたが、先ほどバスで追い越した歩き遍路の男性は、さすがにこの時間ではまだ延命寺にはたどり着かないようだ。
境内の一角には、江戸時代に四国遍路を現在の形に整備したとされる眞念の道しるべや、越智孫兵衛の墓がある。越智孫兵衛とは江戸時代・元禄の頃のこの地の庄屋である。当時、松山藩の農民たちの年貢は「七公三民」という厳しいものだった。それを憂いていた孫兵衛、ある時池の普請を命じられた時、農民たちに握り飯の弁当ではなく、竹筒に麦粥を入れて持参するように指示した。昼時に竹筒を口にしている農民たちを見た役人が、どぶろくでも飲んでいるのかと孫兵衛に質したところ、「いつもは稗の粥を食べているが、今日は藩の御普請ということで特別に麦の粥を持参した」と答え、年貢が厳しくて農民の日々の食べ物にも苦しんでいることを申し立てた。それを聞いた役人たちは気の毒に思ったか、後に年貢を「六公四民」に引き下げる沙汰が下った。またこの他に孫兵衛は農民の生活向上に取り組み、その後の享保の飢饉の時には、周りの村で多くの死者が出たのに対して、この村では一人の餓死者も出さなかったという。延命寺では毎年8月7日に孫兵衛の慰霊祭を行っているそうだ。
さて、続いては第55番の南光坊に向かう。延命寺を出たところに、これはクルマで回る人向けへのメッセージとして「旧へんろ道を散策してみませんか」という看板がある。うーん、気持ちはわかるが、この区間だけ旧遍路道を歩いても、またクルマを取りに戻ってこなければならないとなると・・・。
私はといえば、ここから南光坊までの4キロほどだけが今回の四国めぐりでの「歩きでの移動」なのであまりエラそうなことは言えないが、ともかく向かうことにする。時刻は13時を回ったところで、この時間なら16時の特急には十分に間に合う。ただ、私は旧遍路道をそのまま向かうつもりはなく、途中で別ルートを歩くつもりである。
この辺りは阿方という集落で、田園と住宅が混ざり合ったところを歩く。道しるべも所々にあってわかりやすい。途中で、先ほど触れた越智孫兵衛の顕彰碑に出会う。竹筒に麦粥の話はこの顕彰碑で知ったことである。普通、藩に対してこのような訴えをすると死罪も免れないところだったが、訴えが認められ、しかも天寿を全うできたとは、よほど徳があった人なのかなと思う。
しまなみ海道の高架橋に出る。遍路道はこの下をくぐって行くのだが、私はここで矢印を無視して左に曲がり、坂道を上がっていく。左手には最近開発された住宅地が広がる。「今治しまなみヒルズ」というところで、今治新都市構想の一環(住宅地区)である。これを手掛けているUR都市機構のホームページによれば、国道196号線、今治インターチェンジ、そしてJR今治駅のいずれもクルマで2~4分でアクセスできる「快適な交通環境」がうたわれている。もっともそれはクルマを持っていることが前提ではないのかと思うが、この辺りのの人にとってはそれが当たり前なのだろう。
回り道をしているのは別にしまなみヒルズを見るためではないが、その先にある。もうお察しの方もいらっしゃると思うが・・・。
そう、この学校。正式に来年4月の開校が決まっているのだから、いつまでも「加計学園」と言わずに「岡山理科大学獣医学部」または「岡山理科大学今治キャンパス」と呼ぶべきなのだろう。学校法人名がまず先に目が入るし、野党や一部マスコミがいつまでもこの問題に執着していることから、「加計学園」ということで世の中に定着するのだろう。それはさておき、前回、しまなみ海道をバスで通った時に遠くにチラッと見た建物が、延命寺と今治駅、南光坊を結ぶ途中にあるものだから、これはぜひ通ってみようと思っていたことである。
この日は日曜日ということで工事はお休みで、工事車両の入口もフェンスで締まっている。世間を賑わせていた時ならマスコミ関係者、政治関係者の姿も見られたのだろうが、人の姿は見えない。前の道路も普通の生活道路という感じで地元のクルマが行き交うだけである。入口のところに工事の届出書類の掲示があり、発注者に確かに加計学園の文字がある。気になるのは工事を行っているのがすべて岡山の建設業者というところだが、これを今治の業者にさせるというのはちょっと無理があるのかなと思う。野党や一部マスコミの側からすればそこも気に食わない、安倍首相のお友達だけが利益を得るのだと騒ぐことなのだろうが、やはり学校法人としては勝って知ったる業者に構想段階から任せるところだろうし、岡山の建設業者としてもどこへ下請けを出すかと言われれば、他地方の一見の業者よりは普段から使っている業者となるだろうし・・・。あくまで私の勝手な推測だが、加計学園に限らず、他の学校法人や企業が同じように新たなキャンパスや生産拠点を建設するとなると、安倍首相のお友達とかそういうことは関係なく、同じようにするのではないかと思う。
私個人としては安倍首相の政治姿勢については、好きか嫌いかと聞かれれば嫌いと答えるほうだが、この加計学園問題については、そこまで首相の資質と絡めて責められることなのかな?と思うし、この獣医学部についても来年4月に開校して、その先の学生への適正な教育を行い、獣医師への道が広がって社会に貢献できればそれでいいのではないかと思う。
・・・キャンパスの横を通りながらそんなことを考えていると少しずつ下り坂になり、予讃線の高架橋の下に出た。ここから駅までは少し距離がある。そこで気になるのが、今治駅から獣医学部までの「足」である。学生の数もそう多くないがスクールバスを出すのか、あるいは獣医学部に通うような学生だからクルマ通学が当たり前なのか・・・私が心配することではないが。
何だか延命寺の記事というよりは、越智孫兵衛とか、加計学園とか、相変わらず余計なところが長くなった。そろそろ南光坊である・・・・。
まず山門があり、続いて中門がある。中門が小ぶりな感じだが、元々は今治城の門の一つで、天明年間にここに移されたのだという。
移されたといえば延命寺そのものも移されてこの場所にある。元々は聖武天皇の勅願で行基が不動明王を祀って開いたのが最初とされ(この「聖武天皇の勅願~行基が本尊を祀って開いた」という組み合わせ、このところ続いているように思う)、後に弘法大師が再興して円明寺と名づけられたとある。当時はここから6キロほど北に行った、海に近い近見山にあったそうだ。近見山は今では今治の街並みや、来島海峡、瀬戸内の島々を見下ろす展望台があることで観光スポットになっているが、五来重の『四国遍路の寺』によれば、古くからの海洋信仰にもとづき海が見えるところでの修行(辺地修行)を行ったところが後に札所になったというから、元々はそうした修行の地であったことがうかがえる。
円明寺は古くは多くの塔頭寺院を持っており、鎌倉時代には凝然という僧が「八宗綱要」という、当時の仏教の解説書のようなものを著したという。「八宗」というのは奈良時代の「倶舎」、「成実」、「律」、「法相」、「三論」、「華厳」の6つ、そして平安時代の「天台」と「真言」の2つを指す。当時にはある程度広まっていたはずの浄土宗や禅宗に関しては、まだ体系化するだけの内容がなかったのか、あるいは凝然のところまでは届かなかったのか、最後にさらりと触れる程度だったという。まあ、浄土宗や禅宗、あるいは日蓮宗も天台宗をベースにして生まれたもの、と考えれば、天台宗の説明で事が足りるという考えだったのかもしれない(読んだことがないので意図はわからないが)。
再三の戦火、火災に遭い、江戸中期の享保年間に現在のところに移転した。そして明治になると、隣の第53番の円明寺と同じ名前では混同してややこしいということで、現在の延命寺という名前に変わった。
中門をくぐると、薬師堂(元々は延命寺の奥ノ院だった)、納経所の前を通る。納経所の前には「納経はお参りの後で」という貼り紙がある。まず正面の本堂に向かう。こちらは不動明王が本尊で、このところ近畿三十六不動めぐりも並行しているので身近になっている仏である。再三の火災から逃れてきたことから「火伏せ不動尊」という愛称がある。まずはお勤めを一通り行うが、この記事を書きながら思ったのが、「聖不動経を唱えなかったなあ」というもの。それ用の経本を持ってこなかったのは仕方がない。
続いて石段を上がった上にある大師堂でもお勤めする。なお、大師堂の横に、1992に埋められたというタイムカプセルがある。開封するのは50年後の2042年と書かれているが、どのようなものが埋まっているのだろうか。
これで納経所に戻る。他にクルマで回っている人が何人かいたが、先ほどバスで追い越した歩き遍路の男性は、さすがにこの時間ではまだ延命寺にはたどり着かないようだ。
境内の一角には、江戸時代に四国遍路を現在の形に整備したとされる眞念の道しるべや、越智孫兵衛の墓がある。越智孫兵衛とは江戸時代・元禄の頃のこの地の庄屋である。当時、松山藩の農民たちの年貢は「七公三民」という厳しいものだった。それを憂いていた孫兵衛、ある時池の普請を命じられた時、農民たちに握り飯の弁当ではなく、竹筒に麦粥を入れて持参するように指示した。昼時に竹筒を口にしている農民たちを見た役人が、どぶろくでも飲んでいるのかと孫兵衛に質したところ、「いつもは稗の粥を食べているが、今日は藩の御普請ということで特別に麦の粥を持参した」と答え、年貢が厳しくて農民の日々の食べ物にも苦しんでいることを申し立てた。それを聞いた役人たちは気の毒に思ったか、後に年貢を「六公四民」に引き下げる沙汰が下った。またこの他に孫兵衛は農民の生活向上に取り組み、その後の享保の飢饉の時には、周りの村で多くの死者が出たのに対して、この村では一人の餓死者も出さなかったという。延命寺では毎年8月7日に孫兵衛の慰霊祭を行っているそうだ。
さて、続いては第55番の南光坊に向かう。延命寺を出たところに、これはクルマで回る人向けへのメッセージとして「旧へんろ道を散策してみませんか」という看板がある。うーん、気持ちはわかるが、この区間だけ旧遍路道を歩いても、またクルマを取りに戻ってこなければならないとなると・・・。
私はといえば、ここから南光坊までの4キロほどだけが今回の四国めぐりでの「歩きでの移動」なのであまりエラそうなことは言えないが、ともかく向かうことにする。時刻は13時を回ったところで、この時間なら16時の特急には十分に間に合う。ただ、私は旧遍路道をそのまま向かうつもりはなく、途中で別ルートを歩くつもりである。
この辺りは阿方という集落で、田園と住宅が混ざり合ったところを歩く。道しるべも所々にあってわかりやすい。途中で、先ほど触れた越智孫兵衛の顕彰碑に出会う。竹筒に麦粥の話はこの顕彰碑で知ったことである。普通、藩に対してこのような訴えをすると死罪も免れないところだったが、訴えが認められ、しかも天寿を全うできたとは、よほど徳があった人なのかなと思う。
しまなみ海道の高架橋に出る。遍路道はこの下をくぐって行くのだが、私はここで矢印を無視して左に曲がり、坂道を上がっていく。左手には最近開発された住宅地が広がる。「今治しまなみヒルズ」というところで、今治新都市構想の一環(住宅地区)である。これを手掛けているUR都市機構のホームページによれば、国道196号線、今治インターチェンジ、そしてJR今治駅のいずれもクルマで2~4分でアクセスできる「快適な交通環境」がうたわれている。もっともそれはクルマを持っていることが前提ではないのかと思うが、この辺りのの人にとってはそれが当たり前なのだろう。
回り道をしているのは別にしまなみヒルズを見るためではないが、その先にある。もうお察しの方もいらっしゃると思うが・・・。
そう、この学校。正式に来年4月の開校が決まっているのだから、いつまでも「加計学園」と言わずに「岡山理科大学獣医学部」または「岡山理科大学今治キャンパス」と呼ぶべきなのだろう。学校法人名がまず先に目が入るし、野党や一部マスコミがいつまでもこの問題に執着していることから、「加計学園」ということで世の中に定着するのだろう。それはさておき、前回、しまなみ海道をバスで通った時に遠くにチラッと見た建物が、延命寺と今治駅、南光坊を結ぶ途中にあるものだから、これはぜひ通ってみようと思っていたことである。
この日は日曜日ということで工事はお休みで、工事車両の入口もフェンスで締まっている。世間を賑わせていた時ならマスコミ関係者、政治関係者の姿も見られたのだろうが、人の姿は見えない。前の道路も普通の生活道路という感じで地元のクルマが行き交うだけである。入口のところに工事の届出書類の掲示があり、発注者に確かに加計学園の文字がある。気になるのは工事を行っているのがすべて岡山の建設業者というところだが、これを今治の業者にさせるというのはちょっと無理があるのかなと思う。野党や一部マスコミの側からすればそこも気に食わない、安倍首相のお友達だけが利益を得るのだと騒ぐことなのだろうが、やはり学校法人としては勝って知ったる業者に構想段階から任せるところだろうし、岡山の建設業者としてもどこへ下請けを出すかと言われれば、他地方の一見の業者よりは普段から使っている業者となるだろうし・・・。あくまで私の勝手な推測だが、加計学園に限らず、他の学校法人や企業が同じように新たなキャンパスや生産拠点を建設するとなると、安倍首相のお友達とかそういうことは関係なく、同じようにするのではないかと思う。
私個人としては安倍首相の政治姿勢については、好きか嫌いかと聞かれれば嫌いと答えるほうだが、この加計学園問題については、そこまで首相の資質と絡めて責められることなのかな?と思うし、この獣医学部についても来年4月に開校して、その先の学生への適正な教育を行い、獣医師への道が広がって社会に貢献できればそれでいいのではないかと思う。
・・・キャンパスの横を通りながらそんなことを考えていると少しずつ下り坂になり、予讃線の高架橋の下に出た。ここから駅までは少し距離がある。そこで気になるのが、今治駅から獣医学部までの「足」である。学生の数もそう多くないがスクールバスを出すのか、あるいは獣医学部に通うような学生だからクルマ通学が当たり前なのか・・・私が心配することではないが。
何だか延命寺の記事というよりは、越智孫兵衛とか、加計学園とか、相変わらず余計なところが長くなった。そろそろ南光坊である・・・・。