まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第14回四国八十八所めぐり~防予フェリーで三津浜へ

2017年12月20日 | 四国八十八ヶ所
柳井の町歩きを終えて隣の柳井港駅に向かう。ここから松山・三津浜まで出ているのが防予フェリー。柳井が本社で周防と伊予を結ぶからこの名前はすんなり耳に入るが、これが逆なら「予防」フェリーとなって何だか別の意味になる。

駅から国道を渡った正面が乗り場で、12時25分の出航を前にトラックやクルマが待機している。旅客での利用者も10数人くらいいて、この時季としてはこのくらいの乗船率なのかな。クルマには九州のナンバーもあり、福岡あたりから松山に行くルートの一つなのだろう。

三津浜からの便が着いて車両や乗船客がぞろぞろ降りた後でまず徒歩の客から案内される。客室は2階で、両側に3人がけのシート、中央に桟敷席がある。小さい子ども連れやトラックのドライバーなどは桟敷席に向かう。

定刻に出航。3階の甲板は風が吹いて寒いので、客室後方のデッキや左右の通路で外の景色を見る。四国へのアクセスにフェリーを選んだのは和歌山~徳島の南海フェリー以来2回目だが、たまにはこうした手段で行き、四国は海の向こう側という雰囲気を楽しむのもよい。

進行左手には先ほど通ってきた海岸が広がり、右手には少しずつ周防大島の姿が大きくなる。その間にかかるのは大島大橋である。1976年にかけられたもので、当時としては長い橋だったのではないだろうか。それよりも意外だったのは橋がかかる前に大畠から国鉄の連絡船が出ていたことである。今でも宮島の連絡船がJRに引き継がれているが、あちらは何と言っても宮島の観光客が多い。周防大島はそこまで観光のイメージはなく、島の人たちの生活の足としての連絡船ということか。

瀬戸内海で3番目に大きな島とあって左手の本土と同じくらいの規模の陸地が続くように見える。広島に住んでいた時にドライブで一度周防大島の端まで行き、今を一周したことがあるが結構時間がかかったのを覚えている。

周防大島といえば民俗学者・宮本常一の出身地として知られる。また個人的には元南海の鶴岡一人監督のルーツが周防大島だと聞いている。宮本常一の説では、周防大島は昔から「世間師(しょけんし)」という能力を持つ人が多いのだという。「世間師」とは、広く世間を知る人という意味だそうだが、世間を知るのも本で知識を得るというよりは、人を見る、あるいは町を見る、ということを通して身につけた観察眼である。観察を通して多くのものを得るということで、宮本常一は多くの人や町やモノを見ることで民俗学を築き上げたし、鶴岡監督は多くの選手を発掘した。その最たるものが野村克也だろう。フェリーに揺られながらそんなことに想いを馳せたりする。また回ってみたい島である。

周防大島の周りには多くの小島があり、進むに連れて次々と姿を変えていく。そうした景色を見るのも面白く、席に座るよりは通路やデッキをぶらつく時間のほうが長くなる。

大島の最東端に近い伊保田港に立ち寄る。防予フェリーの1日4往復が寄港するところで、大島から松山への足となっている。船はそのまま前向きに着岸して、車両甲板の前方の空きスペースにクルマが3台バックで入ってくる。このスペースを確保しておくために、伊保田港を利用するクルマは必ず事前予約しなければならないという。

ここまで右手に広がっていた周防大島もそろそろ尽き、愛媛県に入っていく。大きな島では中島、興居島というところがあり、これらの島を近くに見る機会もなかなかない。そうするうちに前方に四国本土が広がってきた。何だか新鮮な景色に見える。

そしてやって来た三津浜。柳井から2時間半の航路だったが、退屈には感じなかった。やはり左右に広がる「防予のしまなみ」の景色のおかげである。このコースを選択して面白かった。

この港に来るのは初めてである。これまでになく変わった形での四国入りとなったが、ここに来るまでの間に結構いろんなものを見たので、はるばる来たぜ三津浜へ・・という感じである。

さてここから歩いてホテルに向かうが、そのわずかな距離の間にもいろいろなものがあった。それは次の記事にて・・・。
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