毎日新聞、2012年2月24日の東京夕刊、特集ワイドという記事に、俵万智さんの近況が書かれてたのを、ツィッター友のTaddy西田さんが教えてくれた。
以下↓に転載させていただきます。
日本よ!悲しみを越えて 歌人・俵万智さん
<この国はどこへ行こうとしているのか>
◇「便利」の先に何が?--俵万智さん(49)
あのミリオンセラー歌集「サラダ記念日」から25年になる。
<大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋>。
日本人が酔った、バブル時代の空気を、そう詠んだ人が今、東京から2000キロ以上離れた南の島にいると聞き、会いに行った。
気温14度。
待ち合わせたリゾートホテルの庭には、真っ赤なハイビスカスの花が咲いていたが、北風のせいで南国情緒は感じられない。
「石垣にしては肌寒いですね」。
落ち着いて、すっかり島になじんだ様子の俵さんだったが、東日本大震災当時の状況を尋ねると、笑みがすっと消えた。
「あの日は、都内の新聞社にいたんです。読書推進会議の最中にすごく揺れて、『仙台で震度7!号外が出ます!』という情報が飛び込んできたんです。
すぐ、実家のある仙台に電話したんですが、手が震えちゃって、ボタンをうまく押せなくて……」
俵さんは、03年11月に未婚のまま、男児を出産したシングルマザー。
一人息子の匠見君を育てながら、都心で創作を続けていたが、幼稚園入園を控えて06年に、両親が老後の家を求めた仙台市に移り住んでいた。
「母が仙台出身で、父も東北大大学院で学びました。子どもの頃からなじみの深い土地だし、息子を土の園庭で伸び伸びと遊ばせてあげたくて。
東京へも日帰り圏内だし、引っ越したんです」
それから4年余り。
かつて、家族や恋愛模様をうたっていた歌人の関心の対象は、最も大切な存在である息子へと移った。
<だだ茶豆、笹(ささ)かまなども並びおり仙台の子のおままごとには>。
母親の眼差(まなざ)しに、仙台の風土を織り交ぜた作品を詠むようになったが、震災がそれを中断させた。
幸い家族は無事だったが、交通機関はストップ。
5日目に、ようやく山形経由で、仙台入りした。
<電気なく水なくガスなき今日を子はお菓子食べ放題と喜ぶ>。
再会した息子が発した言葉は、そのまま歌になった。
だが、東京電力福島第1原発事故による、放射能汚染が重くのしかかった。
いとこの勧めもあり、着の身着のまま、息子を連れて2人で、仙台を離れる決心をした。
<子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え>。
その苦しい胸中を、そんな31文字で表した。
「子どもを被ばくさせてはいけない、安全な所へ逃げようと。那覇便が空いていたので、春休みいっぱいぐらいは様子を見ようかと思ったんです。
2月に始めたばかりだったツイッターに、『西を目指す』と書いたら、大部分は励ましのツイートが寄せられたのですが、
『行ける人はいいね』『もう帰ってこなくていい』とかの批判もあって、心に刺さりました」。
それでも、息子を守れるのは自分しかいない、と思い定めた。
那覇のホテルにいた2週間、震災ニュースにくぎ付けになった。
正月に、家族で滞在した南三陸にも、津波が押し寄せていた。
「2人とも、だんだん煮詰まってきたんですね。息子は指しゃぶりを始めたり、おかしくなって、
私も般若のような顔で、テレビを見ていたりして。
ちょうど、歌人の松村由利子さんが、石垣に住んでいることを思い出して連絡したら、『いらっしゃい』と言ってくれ、1週間くらい居候させてもらいました。
海に連れて行ってもらったり、近所の子どもと遊んだりしているうちに、息子も回復してきて。
やっぱり、人のつながりがある所にいなきゃダメだなって、つくづく思いました」
そのまま、石垣への長期滞在を決意し、目の前に美しい湾が広がるマンションを見つけた。
4月、小学2年生になった匠見君は、地元小学校に元気に通い、すっかり地元の言葉も板についてきた。
<ダンボールから衣装ケースに移すとき「定住」という言葉を思う>。
創作活動はどこにいてもできる--夏休みを過ぎるころから、こんな心境にもなってきた。
「私が仕事で留守にする時には、近所の人が、息子を預かってくれます。
昨日は、、近所の幼稚園が、我が家に『泊まりたい』『いいよ、いいよ』って。
地域社会の中で、子どもが育っている感じが、すごく魅力的なんです」と笑う。
<まだ恋も知らぬ我が子と思うとき「直ちには」とは意味なき言葉>
月刊誌「歌壇」の、昨年9月号に寄せた歌。
原発事故によるパニックを避けるために、政府高官がひねり出したごまかしの言葉に、
世事を、直接的にうたうことを避けてきたはずの歌人は、鋭く反応した。
「国って、自分たちに何をしてくれるのとか、今までそういう見方で、何かを考えたことはなかったんです。
今だって、スローガン的には書きたくはない。
けれども、『直ちに』と言われた時に、後からだって影響が出たら困ります、だって、子どもはまだ、恋もしたことがないんですよという、
母親としての感情なら、うたえるかなという気がしたんです」。
そうした心境の変化は、子どもへの放射能被害を懸念する全国の母親たちの気持ちを、まさに代弁していないか。
権力者の言葉を信じず、地域住民の手助けがなければ生活もできない、スローライフをあえて選択した俵さんは、さらに続ける。
「便利は快適だし楽しいし、別にそれを否定するつもりはありません。
でも、便利の先に何があるのか、それをどんどん研ぎ澄ませていったところに広がる空気は、それほど幸せでもなかったのかなあって」
過剰なまでの「便利」の追求--。
「その便利の象徴が、電気だったような気がします。
今、私たちは、そのしっぺ返しを受けているんじゃないかと……でも、人間ってキリがないんですよね」。
消費社会の“魔力”を知る歌人は、苦笑した。
ホテルのBGMで流れるヒーリング音楽が、耳障りな音に聞こえてきたのは気のせいだろうか。
取材後、私が運転するレンタカーで、俵さんを、市中心部の市役所まで送った。
「きっかけは避難でしたが、今は、ここが気に入って住んでいますね。
自宅から市街地まで、タクシーで30分くらいかかるので、用事をまとめて済ませるようにしているんですよ。
これから、窓口で子ども手当をもらってこなくっちゃ」
助手席で、そう話した彼女の後ろ姿を見送りながら、自分にとって、かけがえのない存在とは何だろうか、と考えさせられた。【中澤雄大】
たわら・まち 1962年大阪生まれ。
現代歌人協会賞受賞の第1歌集「サラダ記念日」で、口語短歌の裾野を広げた。
「愛する源氏物語」で紫式部文学賞。
主な歌集に「チョコレート革命」「プーさんの鼻」など著書多数。
今わたしは日本におらん。
「おらんくせに、そんな人間が好き勝手なことをうるそう言うのが腹立つ」、と言われたりする。
「日本に帰ってもらわなくてけっこうです」と、見ず知らずの人から言われたりもする。
「いいですよね、高みの見物で」、とも言われたりする。
自分が今、日本におらんことの意味を考える。
もし居たら、ほんで息子らがまだ小学生やったら、しかもそれが関東やったら、
わたしは迷わず、この俵さんのように、子供ふたりを連れて、西へ西へと逃げてたやろう。
逃げることに精一杯で、般若の面みたいな顔して、出来る限りの情報を集め、息子らはそんな母親を見て、怯えて暮らす事になったやろう。
他の人に声をかけたり励ましたりするような余裕は無く、妻の狼狽ぶりに仰天している夫を説得する元気も無く、
スーパーの棚の前で泣き崩れそうになり、なんでこれは食べたらあかんのと愚図る息子を叩きそうになり、
やっと、やっとのやっと、人並みな暮らしができてきたとこやったのに、なんでまたこんな貧乏のどん底に落ちてしまわなあかんのかと国を罵り、
それでもやっぱり、放射能みたいな、わけのわからん、目に見えへん猛毒が混じった空気を、水を、食べ物を、我が子の身体に入れること思たら、
こんなん、屁でも何でもないわいっ!と、自分が取った行動を、決して後悔せえへんと思う。
ほんで、いつかきっと、息子達は、わたしが選んだ彼らの子供時代の人生を、心から喜んでくれるやろと思う。
今までにも何度か、息子達は、母親がわたしやったばっかりに、ワケも分からんまま、それまでの人生にさよならをせなあかんことがあった。
新しい人生は、それはそれは大変で、難しくて、子供心にも、なんでこんな毎日を送らなあかんねん、と思たやろうと思う。
わたしら家族を知る人達のほとんどは、息子らがいつかグレたりせんかと、ハラハラしながら見守ってたと言う。
親のわたしがそう思てハラハラしててんから、無理も無い。
ところが息子達は、そんな大方の大人達の期待を裏切り、非行にも走らず、どちらかというと健全に、それぞれの得意なことを生かして、充実した毎日を送ってくれてる。
高線量の地域から、あえて移動せんことを選んだ人、移動しようとしてる人、すでに移動した人、
いろんな大人がいて、その大人と暮らしてる子供がいる。
子供は自分では動けへんから、一緒にいる大人が決めた世界で生きるしかしゃあない。
どんな事情があるにせよ、大人は自分が決めたことに責任と誇りをもって、きっぱりと前向きに生きることが大切。
大人がそういう気持ちをしっかりもってたら、子供はきっと安心する。
ただし、放射能に敏感な子、線量が多過ぎた子は、言葉にすることもできん辛い毎日を続けなあかんことになる。
その時に、その子の苦しむのを見て参ったり後悔したりすることのないよう、残ると決めた大人は腹をしっかり括らなあかん。
わたしはどれだけ腹括っても、そんな我が子の姿を見なあかん生活なんて絶対に無理やとわかってるから、
そやからダッシュで逃げるねん。人からなんと思われようと。わたしとわたしの子供のことは、わたししか助けられへんて知ってるから。
以下↓に転載させていただきます。
日本よ!悲しみを越えて 歌人・俵万智さん
<この国はどこへ行こうとしているのか>
◇「便利」の先に何が?--俵万智さん(49)
あのミリオンセラー歌集「サラダ記念日」から25年になる。
<大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋>。
日本人が酔った、バブル時代の空気を、そう詠んだ人が今、東京から2000キロ以上離れた南の島にいると聞き、会いに行った。
気温14度。
待ち合わせたリゾートホテルの庭には、真っ赤なハイビスカスの花が咲いていたが、北風のせいで南国情緒は感じられない。
「石垣にしては肌寒いですね」。
落ち着いて、すっかり島になじんだ様子の俵さんだったが、東日本大震災当時の状況を尋ねると、笑みがすっと消えた。
「あの日は、都内の新聞社にいたんです。読書推進会議の最中にすごく揺れて、『仙台で震度7!号外が出ます!』という情報が飛び込んできたんです。
すぐ、実家のある仙台に電話したんですが、手が震えちゃって、ボタンをうまく押せなくて……」
俵さんは、03年11月に未婚のまま、男児を出産したシングルマザー。
一人息子の匠見君を育てながら、都心で創作を続けていたが、幼稚園入園を控えて06年に、両親が老後の家を求めた仙台市に移り住んでいた。
「母が仙台出身で、父も東北大大学院で学びました。子どもの頃からなじみの深い土地だし、息子を土の園庭で伸び伸びと遊ばせてあげたくて。
東京へも日帰り圏内だし、引っ越したんです」
それから4年余り。
かつて、家族や恋愛模様をうたっていた歌人の関心の対象は、最も大切な存在である息子へと移った。
<だだ茶豆、笹(ささ)かまなども並びおり仙台の子のおままごとには>。
母親の眼差(まなざ)しに、仙台の風土を織り交ぜた作品を詠むようになったが、震災がそれを中断させた。
幸い家族は無事だったが、交通機関はストップ。
5日目に、ようやく山形経由で、仙台入りした。
<電気なく水なくガスなき今日を子はお菓子食べ放題と喜ぶ>。
再会した息子が発した言葉は、そのまま歌になった。
だが、東京電力福島第1原発事故による、放射能汚染が重くのしかかった。
いとこの勧めもあり、着の身着のまま、息子を連れて2人で、仙台を離れる決心をした。
<子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え>。
その苦しい胸中を、そんな31文字で表した。
「子どもを被ばくさせてはいけない、安全な所へ逃げようと。那覇便が空いていたので、春休みいっぱいぐらいは様子を見ようかと思ったんです。
2月に始めたばかりだったツイッターに、『西を目指す』と書いたら、大部分は励ましのツイートが寄せられたのですが、
『行ける人はいいね』『もう帰ってこなくていい』とかの批判もあって、心に刺さりました」。
それでも、息子を守れるのは自分しかいない、と思い定めた。
那覇のホテルにいた2週間、震災ニュースにくぎ付けになった。
正月に、家族で滞在した南三陸にも、津波が押し寄せていた。
「2人とも、だんだん煮詰まってきたんですね。息子は指しゃぶりを始めたり、おかしくなって、
私も般若のような顔で、テレビを見ていたりして。
ちょうど、歌人の松村由利子さんが、石垣に住んでいることを思い出して連絡したら、『いらっしゃい』と言ってくれ、1週間くらい居候させてもらいました。
海に連れて行ってもらったり、近所の子どもと遊んだりしているうちに、息子も回復してきて。
やっぱり、人のつながりがある所にいなきゃダメだなって、つくづく思いました」
そのまま、石垣への長期滞在を決意し、目の前に美しい湾が広がるマンションを見つけた。
4月、小学2年生になった匠見君は、地元小学校に元気に通い、すっかり地元の言葉も板についてきた。
<ダンボールから衣装ケースに移すとき「定住」という言葉を思う>。
創作活動はどこにいてもできる--夏休みを過ぎるころから、こんな心境にもなってきた。
「私が仕事で留守にする時には、近所の人が、息子を預かってくれます。
昨日は、、近所の幼稚園が、我が家に『泊まりたい』『いいよ、いいよ』って。
地域社会の中で、子どもが育っている感じが、すごく魅力的なんです」と笑う。
<まだ恋も知らぬ我が子と思うとき「直ちには」とは意味なき言葉>
月刊誌「歌壇」の、昨年9月号に寄せた歌。
原発事故によるパニックを避けるために、政府高官がひねり出したごまかしの言葉に、
世事を、直接的にうたうことを避けてきたはずの歌人は、鋭く反応した。
「国って、自分たちに何をしてくれるのとか、今までそういう見方で、何かを考えたことはなかったんです。
今だって、スローガン的には書きたくはない。
けれども、『直ちに』と言われた時に、後からだって影響が出たら困ります、だって、子どもはまだ、恋もしたことがないんですよという、
母親としての感情なら、うたえるかなという気がしたんです」。
そうした心境の変化は、子どもへの放射能被害を懸念する全国の母親たちの気持ちを、まさに代弁していないか。
権力者の言葉を信じず、地域住民の手助けがなければ生活もできない、スローライフをあえて選択した俵さんは、さらに続ける。
「便利は快適だし楽しいし、別にそれを否定するつもりはありません。
でも、便利の先に何があるのか、それをどんどん研ぎ澄ませていったところに広がる空気は、それほど幸せでもなかったのかなあって」
過剰なまでの「便利」の追求--。
「その便利の象徴が、電気だったような気がします。
今、私たちは、そのしっぺ返しを受けているんじゃないかと……でも、人間ってキリがないんですよね」。
消費社会の“魔力”を知る歌人は、苦笑した。
ホテルのBGMで流れるヒーリング音楽が、耳障りな音に聞こえてきたのは気のせいだろうか。
取材後、私が運転するレンタカーで、俵さんを、市中心部の市役所まで送った。
「きっかけは避難でしたが、今は、ここが気に入って住んでいますね。
自宅から市街地まで、タクシーで30分くらいかかるので、用事をまとめて済ませるようにしているんですよ。
これから、窓口で子ども手当をもらってこなくっちゃ」
助手席で、そう話した彼女の後ろ姿を見送りながら、自分にとって、かけがえのない存在とは何だろうか、と考えさせられた。【中澤雄大】
たわら・まち 1962年大阪生まれ。
現代歌人協会賞受賞の第1歌集「サラダ記念日」で、口語短歌の裾野を広げた。
「愛する源氏物語」で紫式部文学賞。
主な歌集に「チョコレート革命」「プーさんの鼻」など著書多数。
今わたしは日本におらん。
「おらんくせに、そんな人間が好き勝手なことをうるそう言うのが腹立つ」、と言われたりする。
「日本に帰ってもらわなくてけっこうです」と、見ず知らずの人から言われたりもする。
「いいですよね、高みの見物で」、とも言われたりする。
自分が今、日本におらんことの意味を考える。
もし居たら、ほんで息子らがまだ小学生やったら、しかもそれが関東やったら、
わたしは迷わず、この俵さんのように、子供ふたりを連れて、西へ西へと逃げてたやろう。
逃げることに精一杯で、般若の面みたいな顔して、出来る限りの情報を集め、息子らはそんな母親を見て、怯えて暮らす事になったやろう。
他の人に声をかけたり励ましたりするような余裕は無く、妻の狼狽ぶりに仰天している夫を説得する元気も無く、
スーパーの棚の前で泣き崩れそうになり、なんでこれは食べたらあかんのと愚図る息子を叩きそうになり、
やっと、やっとのやっと、人並みな暮らしができてきたとこやったのに、なんでまたこんな貧乏のどん底に落ちてしまわなあかんのかと国を罵り、
それでもやっぱり、放射能みたいな、わけのわからん、目に見えへん猛毒が混じった空気を、水を、食べ物を、我が子の身体に入れること思たら、
こんなん、屁でも何でもないわいっ!と、自分が取った行動を、決して後悔せえへんと思う。
ほんで、いつかきっと、息子達は、わたしが選んだ彼らの子供時代の人生を、心から喜んでくれるやろと思う。
今までにも何度か、息子達は、母親がわたしやったばっかりに、ワケも分からんまま、それまでの人生にさよならをせなあかんことがあった。
新しい人生は、それはそれは大変で、難しくて、子供心にも、なんでこんな毎日を送らなあかんねん、と思たやろうと思う。
わたしら家族を知る人達のほとんどは、息子らがいつかグレたりせんかと、ハラハラしながら見守ってたと言う。
親のわたしがそう思てハラハラしててんから、無理も無い。
ところが息子達は、そんな大方の大人達の期待を裏切り、非行にも走らず、どちらかというと健全に、それぞれの得意なことを生かして、充実した毎日を送ってくれてる。
高線量の地域から、あえて移動せんことを選んだ人、移動しようとしてる人、すでに移動した人、
いろんな大人がいて、その大人と暮らしてる子供がいる。
子供は自分では動けへんから、一緒にいる大人が決めた世界で生きるしかしゃあない。
どんな事情があるにせよ、大人は自分が決めたことに責任と誇りをもって、きっぱりと前向きに生きることが大切。
大人がそういう気持ちをしっかりもってたら、子供はきっと安心する。
ただし、放射能に敏感な子、線量が多過ぎた子は、言葉にすることもできん辛い毎日を続けなあかんことになる。
その時に、その子の苦しむのを見て参ったり後悔したりすることのないよう、残ると決めた大人は腹をしっかり括らなあかん。
わたしはどれだけ腹括っても、そんな我が子の姿を見なあかん生活なんて絶対に無理やとわかってるから、
そやからダッシュで逃げるねん。人からなんと思われようと。わたしとわたしの子供のことは、わたししか助けられへんて知ってるから。