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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

HAPPY MOTHER'S DAY!!

2012年05月13日 | 家族とわたし
母の日がかなん時期があった。

弟が10才、わたしが13才の時、母が家を出てから、父が伴侶にと迎えた女性が4人。

プレゼントをしても、喜んでもらえへんかったりした。

自分が母親になって、園児の息子達から、絵を描いてもろたり、先生にほとんど手伝うてもろたであろう工作の作品をもろたりした。

息子Kがわたしの似顔絵を描いてくれた時、頭のてっぺんのとこに、「まうみ37才!」と書いてあるのが大ウケしたこともあった。

息子Tがくれた鍋敷きは、今でも大活躍。

ここ数日、息子Tと連絡がつかんかって、どないしたんやろとちょっと心配してた。
母の日には必ず、電話で「おめでとう」と言うてくれるのに、昼を過ぎてもシーンとしてた。
日が日だけに、こっちからかけるのもなあ……。

そしたら三階の主息子Kから、携帯メールが届いた。

「マザーズデーですね」
「そうですね」
「食べに行きましょか?」
「はい、うれしいです」

先月の誕生日に大盤振る舞いをしてくれたT、そして今日はKが、ご馳走してくれると言う。
まだ学生のKやけど、こないだのトーナメントの優勝金も入ったやろしと、思いっきりタカリの気分。

ほっこりしてたら、Tから電話がかかってきた。

「母の日、おめでとさん」

めっちゃ病気な声?!

「どないしたん?」
「死んでる……」
「なんで?」
「友達が来てて、今朝の10時まで延々と飲み続けてて、さっきやっと帰った」

お酒によほど強いのか、体力が有り余ってるのか、などと思いながら話を聞いてると、
その子は母親を亡くしていることがわかり、胸がきゅうっと痛んだ。

母親と生き別れにしろ死に別れにしろ、母親を失うた子にとって、母の日はかなん。
最近は、世の中がやたらとお祝いモードになるから、もっとかなん。
偶然にしろなんにしろ、もしかしたらTは、ええことしたんかもしれんとふと思た。

「Kは母の日覚えてるかな?」
「うん。なんかご馳走したろって言うてきてくれたで」
「そっか、そりゃよかったわ。ほな今日はKの番っちゅうことで」
「もうあんたにはこないだ充分過ぎるほどしてもろたから」


運転手K。


このお店は、KとMちゃんがちょくちょく来てるお寿司屋さん。


こじんまりとした、雰囲気の良いお店。


店内が暗いので……。


食事の後で、近くのコリアンマーケットに行こうということになり、日曜は何時まで営業してるかを調べ始めたKと旦那。
用事が終わっても、スマートフォン遊びをし出したKに、
「もうやめてよ。母の日のお祝いしてるのに」と、一所懸命やめさせようとしてくれるNちゃん。
ええ子やなあ……。
そしたらKが指差す方向を見ると……、
旦那も思いっきりスマートフォン遊びに熱中の図……まあね、長年かかって、やっとやっと手にしたおもちゃやもんね。
でもでもNちゃんはあきらめへん。
「彼はまうみの息子じゃないじゃないの!だからいいの!でもKはだめ!息子だからだめ!」と、さらに粘る。

よよよ……やっぱ娘ってのはいいなあ……。
 
デザートを頼むと、こんなんしてくれました!


食べ放題やからって、ここまで食べんでも……と思いながらやっぱり……グルヂィ……。
満腹になると、食材の買い物はしたくなくなるけど、それは大きな間違いです、とKに諭され、近くのコリアンマーケットに。

ほんとに仲良し。


そういえばKは、幼稚園の時代から、集団行動ができずに、門柱などの、どうやってそんな高いとこに上ったん?という場所で、よく座ってた。

これが、うちの食事情に大いに貢献してくれるお店『H-MART』。



明日からのおかずの材料も仕入れたし、お腹も満腹やし、片付けもせんでええし、

息子達よ、Nちゃんよ、お祝いしてくれてありがとう!嬉しかった!
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そして、原発で働く人も、農婦も、猟師も、釣り船屋さんも、民宿の人も、みな驚くほどしんみりしていた

2012年05月13日 | 日本とわたし
田中洌さんの『ルンペン放浪記』の、野暮らしという記事を読んだ。

彼は、大飯原発まで歩いて行けるぐらいの海辺にテントを張り、一週間ほど野宿をしていた。


彼の目と心を通して語られた、原発の立地区の人々の様子が、これまで読んだどの文章よりも切実に、どうしようもない現実として伝わってきた。


大島(福井)で 2012年04月30日

ローカル線のほとんどを占めている中・高校生たちは、どこでもTVや漫画のヒーロー&ヒロインの真似をして、
カミナリ頭に超ミニスカートで、この世を軽蔑したようにツンと取り澄まして、ひょうひょうと通学していた。

その中に、この地方だけは、ずいぶんと勤め人たちがまじっていた。
スーツ姿もいるが、大多数は、現場作業をなりわいとする、中年や若年の私服さんだ。

大飯原発の降車駅(若狭本郷)で降りると、関電やWAKASAのバスが次々に到着し、列をつくっていつものように、順番を待つ彼らを拾っていく。


駅前から送迎バスに乗り込む若い女性たち


ことばはない。
賛成も反対も、使命も高揚も、乱れることもはめを外すこともなく、これは原発に限ったことではなかろうが、
同僚と冗談口を叩きながら、拘束時間を円滑にやりくりするのだろう。


メディアは、ぬくぬくと暮らす、富裕層のご機嫌取りを買って出て、貧乏にあえぐ人たちをさらなる困窮に突き落とし、
さらに辛酸を舐めさせ、間断なくあきらめさせ、差しさわりないように殺すことに全精力を傾けることで、成り立っているように見えた。


そのせいなのか?
それとも、エゴイズムに身も心も魂も奪い尽くされ、ひとよりいいものを食べ、快適に、ひとよりましな暮らしをしていることで満足なのだろうか。
自分さえよければ、何がどうなろうとどうでもいいのだろうか?
ひとが苦しもうと、どれほど泣き叫ぼうと関係ないのだろうか?


いや、おそらく、何から何まで関係ないにちがいない。
ひとが生きようと死のうと、どうでもいいにちがいない。
世界は、とっくの昔に滅んでいるというのに、何を今さら騒いでいるのか、きっとそれがわからないにちがいない。

国策という国策は、戦争もダムも、基地も空港も、原発も……人びとを苦しめるだけ苦しめて、やがて行き詰まった。

しかし、放射能に汚された国土そのものを、元通りにすることができるのだろうか?
米や魚や野菜を、きれいにすることができるのだろうか?
――それとも、わたしたちは元々、ゆがんだ世界を目指して突き進んでいたのか?
徹頭徹尾異論の、余地のない絶滅に向かって?

いや、わたしだとて『そのとき』は、カーンと冴えわたる静寂に襲われるだろうと想像している。
だからといって『そのとき』を、あらゆる精力をつぎ込んで、遮二無二早める理由がどこにあろう。
あわてて滅ぶ必要がどこにある?
やがて死ぬとわかったからといって、前もって今死ぬのか?


反対するものも賛成するものも、それぞれたくさんの言いぶんがあるだろう。

しかし、反対も賛成もできないひとたちは、いったいどうするのか?
何万年も何千年も受け継がれてきたわたしたちの営みが、そうやすやすと変わるのか?


原発まで歩いていける、大島の空気はさわやかだった。
海は潮のかおりがなかった。
しかし、おだやかな湾に、漁船や作業船が出入りし、防潮堤のテトラポットをつくるための、基礎工事にいそしむブルやユンボの絶えざる鑿岩音に揺すぶられていても、やはり、ことばに尽くせないほど安心なのである。


海のそばで一週間ほどテント野宿のあと、ひとり敦賀へ


再稼働はやめた方がいいとわかっていても、おいそれと、それを口にすることはできないのだ。

彼らは口をつぐんでいた。
やるせなそうに首を傾がせて、とぼとぼ歩いていた。
あるいは、はじまったばかりのモズク獲りからもどって来ると、ほうかぶりをして、早朝から夕刻まで、せっせと手作業にかまけていた。

ちいさな郵便局と、ちいさな食料品屋のある、人口900人ほどの海沿いのだった。
掃除作業に出かける、関電子会社のお母さんも、大飯から六ヶ所村に出向している、月収90万の現地採用関電社員もいた。
駐在所も消防も、御殿のような作りだった。
のひとたちは、三つも四つも屋敷を持っていた。
今はがらがらの、作業員相手の民宿が、たくさん軒を連ねていた。
10年前の最盛期には、寝る暇もなく働いて、船で寝泊まりしていた渡り船のひとたちも、今ではすっかり暇を持てあましていた。

そして、原発で働くひとも、農婦も、漁師も、釣り船屋さんも、民宿のひとも、みな、驚くほどしんみりしていた。


あきらめられるなら、何とかして、すべてをあきらめたいにちがいない。
冷笑的に、周囲を軽蔑することで持ちこたえられるのなら、そうしたいにちがいない。


だが、あきらめることも、冷笑することもできないのだ。
いくら声を荒げても、いくら躍りこんでいっても、指一本動かせないと知っているのだ。


彼らは清潔で、すべすべしていて、生気に少し欠け、あいまいな輪郭の内側で、ぼうと霞んで見えた。
祝島のひとたちのように、あるいは釜ヶ崎のひとたちのように、切れば血が出るようなくっきりした肉感は、微塵も窺えなかった。
みな、ないだ海を見ているように、静かでおだやかだった。

そして、その昔、彼らの先祖が営んでいた火のような、すさまじい貧困を、それとなく懐かしんでいるように見えた。
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ピアノのための詩曲『炎よ』『夢よ』

2012年05月13日 | 音楽とわたし


≪les poemes pour le piano≫ no.1
composer ; K.Miyashita
poeme & pianoforte ; Hary Mondo

『炎よ』
なにもかも流されてしまった。
地面には強い力でえぐられた跡が残り、焚いた炎のオレンジ色の影が揺らめいている。
天の月は、美しく冴えた白い光で辺り一面を包み込む。

なにもかも奪われてしまった。
これほどの喪失を、いったい誰が想像できただろうか。
もしわたしが今、この炎になったら、その哀しみの炎は天を突き、月を焼き尽くしてしまうかもしれない。

目を閉じて聞いていると、いつしかわたしは、訪れたこともない東北の、津波でなにもかもを失った海辺に立っていました。
足元に、打ち寄せては引いていく波の冷たさ、足の裏でうごめいている砂、わたしを囲むがれきの山……。

地球の上でどんなことが起ころうと、太陽は上り、月は上り、いつもと変わらず光を与えてくれるけれど、
その光が映し出す光景は、起こった事それぞれの、すっかり変わってしまった姿として、わたし達は受け止めなければなりません。

どんな無常も受け止めて生きていく。
命の炎が燃え尽きるまで。

聞いているうちに、哀しいけれど、空しいけれど、そして怒りさえも覚えるけれど、
生きていこうよ、ひとりじゃないよ、という声が、遠くから聞こえてきたような気がします。




≪les poemes pour le piano ≫ no.2
( composer ; Kazuo Miyashita )
( poeme & pianoforte ; Hary Mondo )

『夢よ』
あたたかですね。
なんか、おかあさんの膝の上を思い出しました。
すっかり大人になって、いろんなことを経験して、知ってしまったままの心を抱えた子どもが、
おかあさんの温かな手のひらで、頭を撫でてもらってる。
そんな、やわらかでうっとりしてて、ちょっと気怠い夢心地。

でも、気がついたら泣いてるんです。
なにが哀しかったのか、それが思い出せない。
おかあさんの顔も、思い出せない。
だから、自分をそっと抱きしめる。



やっぱり師匠のピアノの音色、いいなあ~、好っきゃな~♪
感想を、ということで、勝手なことをつらつらと書いてみました。

この曲は、去年の12月10日に、大震災復興支援チャリティーということで、伊勢市内のカフェを借り切ってプチ・コンサートをした際に、弾いた曲なのだそうです。

作曲の宮下氏が、師匠の書かれた「詩」を元に、師匠のために書かはった曲なんだそうです。 

みなさんにもお裾分け♪
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かあちゃん日曜日

2012年05月13日 | ひとりごと
今日は母の日。
日本の母に電話をかけた。
ここしばらく、いつ電話をかけても留守してたので、だんだん心配になってきてたけど、元気そうで安心した。

わたしも母親業をやり出してから、早25年と半年が経った。
息子らが保育園、幼稚園、小学校に行ってる間は、手作りのかわいいプレゼントを毎年もろた。
鍋敷きは今だに使てる。

「おかあさんありがとう」の幼い字を見るたび、飽きもせんと口元がほころぶ。

今日は朝からめっちゃいい天気。


旦那と一緒に、裏庭のテーブルで朝ご飯を食べて、ぼぉーっとする。


今日は何の予定も入れずに、ゆっくりしよな。


なんの点検でっか?


かあちゃん、お陽さん熱い……。
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