マンハッタンの教会で、小出先生の講演を聞いた。
彼の講演は、それまでにも何度も、ユーチューブのビデオで聞いてきたし、ラジオの放送の録音でも聞いたことがあった。
小出裕章、という人の存在を、あの原発事故が起こるまで、わたしは全く知らんかった。
だいたい、原発が、日本に、54基もあることすら知らんかった。
たまに、原発立地に反対する人達の抗議行動の記事を目にしたことはあったけど、
その時も、読み逃げしながら、心の端っこの方で、気の毒やけど、電気は必要やからなどと、今から思えばとんでもない、
そやけど、わたしみたいなんがいっぱいおったから、こんな世の中ができあがってしもたんやとも言える、典型的な阿呆やった。
震災と津波が起こる少し前に、たまたまツィッターを始めてて、使い方もろくにわかってなかったけど、未曾有の災害に襲われた日本の様子を知りたい一心で、どんどんのめり込んでいった。
そして知った、原発の増加をなんとか阻止しようと、人生を懸けて闘うてきた人達。
小出先生は、その中のひとりやった。
だんだんと、知らんふりしてきた世界が、もうどうしようもないくらい歪んでしもてたことが分かり、
原子力にまつわる原発マフィアの実態や、日本という国がすっぽりはまってしもたシステムの実情も見えてきて、
こらあかん、なんとかせな日本は終わると、大げさやなく思た。
そや、小出先生や広瀬さんやったら、とうとう自分らの出番やとばかりに、ガンガン頑張ってくれはるやろう!
わたしらは、ついていったらええ。彼らを応援して、元気づけて、教えてもろたことを行動に移してったらええ。
日一日と過ぎていき、彼らの声色にも、怒りや恨みが薄まってきて、ずいぶんと落ち着きが感じられてきた頃になると、
「わたしにはわかりません。どうしたらいいのかわかりません。みなさんそれぞれができることをしてください」という言葉が増えてきた。
そして、汚染された食べ物のうち、汚染の酷いものを年寄りが、汚染のできるだけ軽いものを子どもが食べる、
そういうことも耳にするようになった。
日本だけに限らず、福島からまき散らされた放射能はきっと、ほんまはわたしなんかが想像してる以上に、世界を汚染してるんやろう。
放射能を専門に研究し続けてきた学者に見えてる現実は、わたしのそれとは違うのやろう。
そう思うのやけど、ついつい、こんなことを思てしまう。
そんなこと言わんとなんとかしてよ。
それだけの反原発の歴史と、反論できる研究資料があるんやろから、世界は絶対に無視せえへんて。
そやし、あんたらが先頭に立って、世界に助けを求めてよ!訴えてよ!
なんで、日本の中で、あちこち回って講演してるだけなん?
そしてとうとう、直に講演を聞くチャンスがやってきた。
質疑応答もあるという。
よし、直接聞いてもらおう。直接頼んでみよう。
意気揚々と会場である教会に出向いた。
小出先生が、すぐ前の壇上に立ってはった。
我々の寄付で募ったビジネスクラスの席でやって来はったとはいえ、多忙中の多忙の身での長旅直後というのに、
それはそれは清々しい、孤高の寂しさが混じり合うた静寂をまとい、彼はスゥッと真っすぐに立ってはった。
講演は、レントゲンからキュリー夫妻のこと、そして東海村の事故の話につながっていった。
・原子炉は、米国で、1942年に稼働が開始した。
・それ以来、毒物(核物質)の無毒化の研究も並行して始まったけど、世界中の優れた化学者が70年もかかってできなかったのだから、これから先もまず不可能だと考えなければならない。
・そしてその、原発から生み出した核廃棄物のゴミは、100万年もの間、毒を世の中に吐き続ける。
・今回、福島で起こった事故によって、日本が放棄しなければならない土地は、2万平方キロメートルに及ぶと思われる。
・それは、日本という国が倒産する規模のもの。
・そして今だ、最も危険だと見なされている4号機では、使用済み燃料プールの底に沈んでいる燃料を取り出そうとしているが、
・その作業自体、来年の12月にならないと始められない状態。
・しかも、燃料の上に爆発で崩れたがれきが被さっており、燃料も破損しているので、
取り出す際に燃料をいれないといけないキャスクに、きちんと入れることができるかどうかも不明。
・これからの若い科学者は、本当に気の毒。先人の過ちを尻ぬぐいをしなければならない。
そして講演が終わり、質疑応答が始まった。
わたしはその時でもまだ、小出先生にお願いをしようと思ってた。
『政治が嫌いだと、常日頃からおっしゃられていることは重々承知しております。が、このような解決し難い状況を少しでも打開するべく、世界の、お仲間の学者の方々に、小出先生から直接、働きかけをしていただけないでしょうか?
そのためにもし、政治家の介入などが必要な場合もあるかもしれませんが……』
質疑応答は、会場に来ている400人が、質問用紙に書き込み、その中で最も多かった内容の質問に答えてもらう、という形式で行われた。
小さな子供がいる母親からの、帰省の是非については、「もしできるなら、戻らないことをお勧めしたいです」と、苦笑いしながら答えてはった。
そこでもやっぱり、55才ともなると放射能に対する感受性はすごく低くなるので、という話が出た。
その55才のわたしは、心の中で、やっぱり反抗してた。
講演会のすべてが終わり、小出先生にサインや握手を求める長い長い列を眺めながら、会場に来ていた想田監督夫妻と話をした。
そこでわたしは、小出先生へのお願いがある話をした。
その瞬間、目の前のふたりが、ポカンとした表情でわたしを見つめ、空気が滞った。
え?と思った。
なにが間違ったこと言うたかな?
それからしばらくの間、いろんな話をして、そして家に戻り、興奮が覚めやらぬまま、パソコンの前で時間を過ごした。
そしてハッと気がついた。
自分の中に居座っていた、しつこい依頼心の存在に。
ある人が、ツィートで、小出先生の限界、という言葉を書いて送ってくれた。
その『限界』という文字を読んだ時、わたしはやっと、それこそが、一番認めとうなかったことやったことで、
認めとうないからこそ、しつこく、彼に対して何かを要求してたんやと気づいた。
そしてその当人のわたしは、自分のことを棚に上げ、ひとりひとりができることをやろう!などと、毎日叫んでいたんやと。
小出先生は、もう40年以上もの間、ご自身ができると思うこと全部をやり尽くしてきたと、はっきりと言うてはるやないか。
それでも何も変わらんかったと。
わたしは、そんな壮絶な人生を送ってきはった人に向かって、
「けど、今なら事情が違います。あなたはこんなに注目されてて、ついて行きたいと思てる人は大勢います。
そういう状況を利用しはったらええやないですか。
先頭に立って、ガンガンやらはったらええやないですか」などと、なんとも利己主義な思いをぶつけてきた。
小出先生の限界を理解し、受け取り、その限界の線を、わたしらひとりひとりの手で握った消しゴムで消していく。
そのわたしらひとりひとりにも、それぞれ違う限界がある。
けども、わたしらは数という力がある。
その数は、現実を知ることで増えてくる。
そのために、現実を伝えに、全国津々浦々を回ってくれてる。
そして米国までにも。
わたしはやっと、自分の手に、消しゴムを握れた気がした。
そしてもう一つ、
わたしは、これから世に出てくる、原子力関連の若い研究者ほど、やり甲斐がある仕事ができる人はいないと思う。
放射性物質の無毒化を実現させることはまさに、地球を救うことにつながるのだから。
小出先生からその人達に渡される消しゴムはきっと、とても特別で、硬くて、美しいだろう。
彼の講演は、それまでにも何度も、ユーチューブのビデオで聞いてきたし、ラジオの放送の録音でも聞いたことがあった。
小出裕章、という人の存在を、あの原発事故が起こるまで、わたしは全く知らんかった。
だいたい、原発が、日本に、54基もあることすら知らんかった。
たまに、原発立地に反対する人達の抗議行動の記事を目にしたことはあったけど、
その時も、読み逃げしながら、心の端っこの方で、気の毒やけど、電気は必要やからなどと、今から思えばとんでもない、
そやけど、わたしみたいなんがいっぱいおったから、こんな世の中ができあがってしもたんやとも言える、典型的な阿呆やった。
震災と津波が起こる少し前に、たまたまツィッターを始めてて、使い方もろくにわかってなかったけど、未曾有の災害に襲われた日本の様子を知りたい一心で、どんどんのめり込んでいった。
そして知った、原発の増加をなんとか阻止しようと、人生を懸けて闘うてきた人達。
小出先生は、その中のひとりやった。
だんだんと、知らんふりしてきた世界が、もうどうしようもないくらい歪んでしもてたことが分かり、
原子力にまつわる原発マフィアの実態や、日本という国がすっぽりはまってしもたシステムの実情も見えてきて、
こらあかん、なんとかせな日本は終わると、大げさやなく思た。
そや、小出先生や広瀬さんやったら、とうとう自分らの出番やとばかりに、ガンガン頑張ってくれはるやろう!
わたしらは、ついていったらええ。彼らを応援して、元気づけて、教えてもろたことを行動に移してったらええ。
日一日と過ぎていき、彼らの声色にも、怒りや恨みが薄まってきて、ずいぶんと落ち着きが感じられてきた頃になると、
「わたしにはわかりません。どうしたらいいのかわかりません。みなさんそれぞれができることをしてください」という言葉が増えてきた。
そして、汚染された食べ物のうち、汚染の酷いものを年寄りが、汚染のできるだけ軽いものを子どもが食べる、
そういうことも耳にするようになった。
日本だけに限らず、福島からまき散らされた放射能はきっと、ほんまはわたしなんかが想像してる以上に、世界を汚染してるんやろう。
放射能を専門に研究し続けてきた学者に見えてる現実は、わたしのそれとは違うのやろう。
そう思うのやけど、ついつい、こんなことを思てしまう。
そんなこと言わんとなんとかしてよ。
それだけの反原発の歴史と、反論できる研究資料があるんやろから、世界は絶対に無視せえへんて。
そやし、あんたらが先頭に立って、世界に助けを求めてよ!訴えてよ!
なんで、日本の中で、あちこち回って講演してるだけなん?
そしてとうとう、直に講演を聞くチャンスがやってきた。
質疑応答もあるという。
よし、直接聞いてもらおう。直接頼んでみよう。
意気揚々と会場である教会に出向いた。
小出先生が、すぐ前の壇上に立ってはった。
我々の寄付で募ったビジネスクラスの席でやって来はったとはいえ、多忙中の多忙の身での長旅直後というのに、
それはそれは清々しい、孤高の寂しさが混じり合うた静寂をまとい、彼はスゥッと真っすぐに立ってはった。
講演は、レントゲンからキュリー夫妻のこと、そして東海村の事故の話につながっていった。
・原子炉は、米国で、1942年に稼働が開始した。
・それ以来、毒物(核物質)の無毒化の研究も並行して始まったけど、世界中の優れた化学者が70年もかかってできなかったのだから、これから先もまず不可能だと考えなければならない。
・そしてその、原発から生み出した核廃棄物のゴミは、100万年もの間、毒を世の中に吐き続ける。
・今回、福島で起こった事故によって、日本が放棄しなければならない土地は、2万平方キロメートルに及ぶと思われる。
・それは、日本という国が倒産する規模のもの。
・そして今だ、最も危険だと見なされている4号機では、使用済み燃料プールの底に沈んでいる燃料を取り出そうとしているが、
・その作業自体、来年の12月にならないと始められない状態。
・しかも、燃料の上に爆発で崩れたがれきが被さっており、燃料も破損しているので、
取り出す際に燃料をいれないといけないキャスクに、きちんと入れることができるかどうかも不明。
・これからの若い科学者は、本当に気の毒。先人の過ちを尻ぬぐいをしなければならない。
そして講演が終わり、質疑応答が始まった。
わたしはその時でもまだ、小出先生にお願いをしようと思ってた。
『政治が嫌いだと、常日頃からおっしゃられていることは重々承知しております。が、このような解決し難い状況を少しでも打開するべく、世界の、お仲間の学者の方々に、小出先生から直接、働きかけをしていただけないでしょうか?
そのためにもし、政治家の介入などが必要な場合もあるかもしれませんが……』
質疑応答は、会場に来ている400人が、質問用紙に書き込み、その中で最も多かった内容の質問に答えてもらう、という形式で行われた。
小さな子供がいる母親からの、帰省の是非については、「もしできるなら、戻らないことをお勧めしたいです」と、苦笑いしながら答えてはった。
そこでもやっぱり、55才ともなると放射能に対する感受性はすごく低くなるので、という話が出た。
その55才のわたしは、心の中で、やっぱり反抗してた。
講演会のすべてが終わり、小出先生にサインや握手を求める長い長い列を眺めながら、会場に来ていた想田監督夫妻と話をした。
そこでわたしは、小出先生へのお願いがある話をした。
その瞬間、目の前のふたりが、ポカンとした表情でわたしを見つめ、空気が滞った。
え?と思った。
なにが間違ったこと言うたかな?
それからしばらくの間、いろんな話をして、そして家に戻り、興奮が覚めやらぬまま、パソコンの前で時間を過ごした。
そしてハッと気がついた。
自分の中に居座っていた、しつこい依頼心の存在に。
ある人が、ツィートで、小出先生の限界、という言葉を書いて送ってくれた。
その『限界』という文字を読んだ時、わたしはやっと、それこそが、一番認めとうなかったことやったことで、
認めとうないからこそ、しつこく、彼に対して何かを要求してたんやと気づいた。
そしてその当人のわたしは、自分のことを棚に上げ、ひとりひとりができることをやろう!などと、毎日叫んでいたんやと。
小出先生は、もう40年以上もの間、ご自身ができると思うこと全部をやり尽くしてきたと、はっきりと言うてはるやないか。
それでも何も変わらんかったと。
わたしは、そんな壮絶な人生を送ってきはった人に向かって、
「けど、今なら事情が違います。あなたはこんなに注目されてて、ついて行きたいと思てる人は大勢います。
そういう状況を利用しはったらええやないですか。
先頭に立って、ガンガンやらはったらええやないですか」などと、なんとも利己主義な思いをぶつけてきた。
小出先生の限界を理解し、受け取り、その限界の線を、わたしらひとりひとりの手で握った消しゴムで消していく。
そのわたしらひとりひとりにも、それぞれ違う限界がある。
けども、わたしらは数という力がある。
その数は、現実を知ることで増えてくる。
そのために、現実を伝えに、全国津々浦々を回ってくれてる。
そして米国までにも。
わたしはやっと、自分の手に、消しゴムを握れた気がした。
そしてもう一つ、
わたしは、これから世に出てくる、原子力関連の若い研究者ほど、やり甲斐がある仕事ができる人はいないと思う。
放射性物質の無毒化を実現させることはまさに、地球を救うことにつながるのだから。
小出先生からその人達に渡される消しゴムはきっと、とても特別で、硬くて、美しいだろう。