ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

『な~んちゃって脱原発♪』by 橋下市長

2012年05月11日 | 日本とわたし
ここ2日ばかり、ちょっとこの方の周辺でうろついております。
いろいろと言いたいことてんこ盛りですが、その中でもやはりこの、なんちゃって脱原発(とわたしには思えてならない)は一番の関心事。

そこで、この記事を書いてくださった秋原葉月さんのブログ『Afternoon Cafe』より、『橋下氏のなんちゃって脱原発』をご紹介します。


橋下氏のなんちゃって脱原発

本日未明、42年ぶりに、一基も原発が動いていない状態となりました。
日本の全原発停止は、ドイツでも、トップで報道されたそうです。
でも、動いていないだけで、今の政治のままでは、いつだって再稼働に戻る可能性があります。
今日が、廃炉までの長い道のりの始まりです。
まだ明らかにされなければいけないことは、山ほどあることを肝に銘じて。

さて、マスコミは、「脱原発を唱え、打倒民主党をぶち上げた橋下氏」という扱いですが、
橋下氏は、玉虫色のクルクル王子らしい、変わり身の早さを示しました。
橋下氏の、脱原発に対する私のスタンスは、
「彼の脱原発は、単なる人気取りのパフォーマンスかも知れないし、本気かも知れない。
それはどちらでもいいことだ。
彼の脱原発を、否定する必要も、肯定する必要もないし、連携する必要もない」
というものです。
そのスタンスは変わりませんが、やっぱり「なんちゃって脱原発」だったのだなあ、との感を強くしたので、記録しておきます。

ちょっと古い報道ですが、こちらから抜粋。

大飯再稼働:「原発か節電か」橋下市長が住民に選択訴え 毎日新聞 2012年04月26日 15時52分(最終更新 04月27日 07時21分)

大阪市の橋下徹市長は26日、関西電力大飯原発3,4号機を再稼働しない場合の夏の電力需給について、
「(需要の)ピーク時にみんなで我慢できるかどうか。府県民に厳しいライフスタイルの変更をお願いする。それが無理なら原発を再稼働するしかない」と述べ、
「原発か節電か」の二者択一を、住民に訴える考えを示した。

政府は今夏、猛暑で原発再稼働がない場合、関西電力で最大約19%、電力が不足するとの見通しを示している。
橋下市長は「産業には影響を与えず、家庭に、冷房の温度設定など、負担をお願いすることになる。
安全はそこそこでも、快適な生活を望むのか、不便な生活を受け入れるか、二つに一つだ」と話した。

橋下市長はこれまで、安全性を確認する手続きが不十分なことを理由に、原発再稼働に反対してきたが、
「理想論ばかり掲げてはだめ。生活に負担があることをしっかり示して、府県民に判断してもらう」と強調した。【津久井達】


●節電新税、橋下市長が提案 企業向け奨励金の財源に 朝日新聞 2012年04月26日
 
2府5県と大阪、堺両市が参加する、関西広域連合は26日、電力不足が懸念される夏に向け、
プロジェクトチーム(PT)で、具体的な節電策を検討していく方針を決めた。
橋下徹大阪市長は、大口需要家の企業などに、奨励金(インセンティブ)を出して節電を促す一方、財源として、新税の創設を提案した。

(略)
 
広域連合は、昨夏も5~10%の節電を呼びかけたが、この夏は、原発の全停止に伴い、知事らは、より具体的な節電策が必要、との認識で一致。
山田啓二京都府知事が、「大口需要家へのインセンティブを検討すべきだ」と提案し、
橋下氏は、財源として、増税を提案したうえで、「関西の府県民に、1カ月1千円とか、応分の負担を考えるべきだ」と主張した。
井戸連合長は、大阪府市と滋賀県、京都府を中心に、PTをつくり、具体的な節電策を検討する方針を示した。


朝日新聞・橋下番‏@asahi_hb

橋下氏の続き。
「乗り切れるというのは、僕が乗り切るわけじゃないですからね。
関西府県民のみなさんが、乗り切れるかどうかですから。
それが無理だったら、再稼働はやるしかないと思いますよ」



これ、酷くないですか?
電力の大半を消費するのは、家庭ではなく企業です。
従って、効率よく節電するなら、事業者の方に対策を求めるのが合理的です。
ところが橋下氏は、
「産業には影響を与えず、家庭に冷房の温度設定など負担をお願いすることになる。
安全はそこそこでも、快適な生活を望むのか、不便な生活を受け入れるか、二つに一つだ」

と、家庭の方に、根性論的な不利益を押しつけています。

原発再稼働なしで電力不足に陥るようなら、大企業には「節電頑張ってね」と、奨励金をあげる優遇策。
(実際には、節電による不利益を、税金で補填する、という意味合いになるでしょう)
しかし、その財源は、庶民から新たに吸い上げる新税とは。

庶民には「節電のためにエアコン切って我慢しろ&節電税負担しろ」の二重苦。
企業には「節電よく頑張りました、奨励金あげましょう」
って、どうなんでしょう。

そして、府県民が、節電の不便を乗り切れないなら、再稼働しかない、
でも、「乗り切れるというのは、僕が乗り切るわけじゃないですからね。
関西府県民のみなさんが、乗り切れるかどうかですから」
と、随分冷たい態度、まるで他人事です。
これ、「再稼働を選んだのは、あくまでも県民の皆さんの民意、ぼくじゃない」と、責任転嫁しているとしか思えません。

このあたり、労組へのアンケート調査の全責任、全権限は自分にあると明言しておきながら、野村氏にお任せしてあるからボクは従うだけ、と責任転嫁して逃げを打ったのと同じです。

反原発の住民投票に対しては、
「僕が関電にうまく交渉するからわざわざ金を使って住民投票するまでもない」と矛をおさめさせたくせに、これですか。

再稼働無しとなれば、「脱原発を主張してきたボクの手柄」
再稼働となれば、「それを選んだのは県民の皆さん、ボクじゃない」

ってことですね?


次のツイートもどうぞ

Joha ‏ @Joha_woodcraft
橋下市長が、「再稼働か節電か」と恫喝まがいをやってるが、対照的なのが、保坂展人区長。
太陽光パネルの一括購入に代表されるように、具体的かつ、市民と共同の節電、売買電のスキームを立ち上げている。
どちらが本物かは言うまでもなく、上意下達方式の橋下が、新鮮に見えるのは、感情の問題に過ぎない。


「こどもをまもる」bot ‏ @kodomo_mamoru
大阪の橋下新市長は、瓦礫を焼却すれば、放射線量が焼却前の約33倍になる、という事実を、受け入れ後に「知らなかった」と言いました。
東京では、石原都知事が、瓦礫受け入れに関する記者の質問に、「黙れ」と一喝しました。
常に弱い立場の人に対して、受難を押しつける、今の社会の不誠実さを、考えざるを得ません。



橋下氏の脱原発が、「なんちゃって」に過ぎないことを示唆する、赤旗の記事も記録しておきましょう。

◆橋下市長、経産幹部と密会
2月大飯再稼働で意見交換/民主幹部同席 赤旗新聞 2012年5月1日(火)

大阪維新の会代表の、橋下徹大阪市長が、政府の原発再稼働方針を進める経済産業省幹部と、2月に都内で、隠密裏に会っていたことが、4月30日までに分かりました。
橋下氏は、政府が進める原発再稼働に向けた手続きに、クレームをつけたものの、再稼働そのものに、反対を明言していません。
背景として、再稼働を推進する政府・民主党関係者との、水面下の接触の影響が指摘されます。

橋下市長が会ったのは、経済産業省資源エネルギー庁次長の、今井尚哉氏です。
上京中の2月21日朝、東京・虎ノ門のホテル・オークラの、和風かっぽうで面談しました。
今井次長は、原発再稼働が必要だと判断した、政府の4大臣(野田首相、藤村官房長官、枝野経済産業相、細野原発担当相)会合に、経済産業省事務当局を代表する資格で、陪席しています。

電力業界関係者によると、橋下市長と今井次長は、関西電力大飯(おおい)原発3、4号機の再稼働をめぐって、意見交換しました。
同日の会合には、原発再稼働に積極的な、民主党の政策担当幹部が同席していました。
橋下氏は、上京の折、この民主党幹部と、隠密裏にしばしば会っている事実が、確認されています。

『橋下「大阪維新」の嘘』の著者の、一ノ宮美成氏は、
「橋下市長は、やましくなければ、資源エネルギー庁次長と公式に会えばいいはずだ。
橋下市長は、関西財界3団体との会談で、原発再稼働問題に一言も触れなかったことが物語るように、再稼働に反対する姿勢にもともと立っていない。
政府の拙速な再稼働手続きに、注文をつける格好をしたのは、世論受けを狙ったのだ。
案の定、再稼働、しからずんば負担増と、どっちへころんでも、国民や大阪府・市民に、しわ寄せを迫っている」と語ります。


次のブログも是非ご一読下さい。

◆【堺からのアピール】教育基本条例を撤回せよ
橋下徹の人気取りネタにすぎない…原発再稼働反対
(つぶやき五郎さんのブログ「大阪弁で世情を語る」の橋下批判は、大阪弁で書いてあって、読みやすく、とっても楽しいです)

◆ kojitakenの日記
橋下、「節電に住民支持ない場合は原発再稼働容認」

◆ 橋下は既に「再稼働・原発維持容認」に路線転換済み
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20120428/1335574156

以上、転載終わり。



ウェブ新聞を端折り読みしながら感じてた、なんかようわからんやん、この人いったいどっちやのんが、この記事を読んでる間にゆるゆると溶けました。

そっか、『な~んちゃって』やからかぁ~。

あ~すっきりした!
けど、この人は、相当にズルやから、めちゃくちゃ気ぃつけてツッコミ入れていかなあきませんね。
ただし、葉月もおっしゃってましたが、この人は、自書で、こんなことを書かれているそうです。

『交渉の流れが不利になってきたら(答えたくないことを聞かれたら)、不毛な議論をふっかけて煙に巻く。(90頁)』
『"脅し"により相手を動かす。(24頁)』『話をすり替える』『一方的にまくし立てる』


なので、ツッコミ入れる時は、よほど周到に下調べをして、将棋やチェスのように、相手がどう仕掛けてくるかのシュミレーションを重ねておく必要がありますが……。
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君が代不起立処分最高裁判決において、たったひとり反対を表明した、宮川光治裁判官の意見

2012年05月11日 | 日本とわたし
君が代不起立処分最高裁判決において、たったひとり反対を表明された方がいはる。
宮川光治裁判官の意見をここに掲載させていただきます。
今、大阪では、維新の会がせっせと種蒔きしてるファシズムの芽が、ぼちぼちいろんなとこから頭を現し始めてる。
種蒔きしている下っ端の連中には、自分達がやっている意味がよくわかってないのかもしれん。
大阪市民かて、なんや下品な物言いやけど、おんなじことばっか言うて分かりやすいし、公務員叩くのは気分ええし、ええんちゃう?
ぐらいの気持ちで、ひょっとしたら応援してたりするんかもしれん。
けどな、放っといたらあかんで。
あっという間に豹変して、えらいこっちゃになる。
こういうゴチャゴチャしてる時にようあることや。
ボケとったらあかんて!

長いけど、頼むから読んでください。


『本件は、少数者の思想、及び良心の自由に、深く関わる問題であると思われる。
憲法は、個人の多様な思想、及び生き方を尊重し、我が国社会が、寛容な開かれた社会であることを、その理念としている。
そして、憲法は、少数者の思想、及び良心を、多数者のそれと等しく尊重し、
その思想、及び良心の、核心に反する行為を行うことを強制することは、許容していないと考えられる。
このような視点で本件を検討すると、私は、多数意見に同意することはできない。
まず、【1】において、私の反対意見の要諦を述べ、【2】以下において、それを敷衍する。

【1】国旗に対する敬礼や、国歌を斉唱する行為は、私もその一員であるところの多くの人々にとっては、心情から自然に、自発的に行う行為であり、
式典における起立斉唱は、儀式におけるマナーでもあろう。
しかし、そうではない人々が、我が国には相当数、存在している。
それらの人々は、「日の丸」や「君が代」を、軍国主義や、戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし、
平和主義や国民主権とは、相容れないと考えている。
そうした思いは、それらの人々の心に深く在り、人格的アイデンティティをも形成し、思想、及び良心として、昇華されている。
少数ではあっても、そうした人々は、ともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを、社会に投げかけているとみることができる。
上告人らが、起立斉唱行為を拒否する前提として、有している考えについては、原審の適法に確定した、事実関係の概要中において、6点に要約されている。
多数意見も、この考えは、「『日の丸』や『君が代』が、過去の我が国において、果たした役割に関わる、
上告人ら自身の歴史観ないし世界観、及びこれに由来する、社会生活上ないし教育上の信念等、ということができる」としており、
多数意見は、上告人らが有している考えが、思想、及び良心の内容となっていること、ないし、これらと関連するものであることは、承認しているものと思われる。
上告人らが、起立斉唱しないのは、式典において、「日の丸」や「君が代」に関わる、自らの歴史観、ないし世界観、及び教育上の信念を、表明しようとする意図からではないであろう。
その理由は、第1に、上告人らにとって、「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱する行為は、慣例上の儀礼的な所作ではなく、
上告人ら自身の、歴史観ないし世界観等にとって、譲れない一線を越える行動であり、
上告人らの思想、及び良心の核心を、動揺させるからであると思われる。

第2に、これまで、人権の尊重や、自主的に思考することの大切さを強調する、教育実践を続けてきた教育者として、
その魂というべき、教育上の信念を否定することになると、考えたからであると思われる。
そのように真摯なものであれば、本件各職務命令に服することなく、起立せず斉唱しないという行為は、
上告人らの思想、及び良心の、核心の表出であるとみることができ、少なくとも、これと密接に関連しているとみることができる。
上告人らは、東京都立高等学校の教職員であるところ、教科教育として生徒に対し、国旗、及び国歌について、教育する、ということもあり得るであろう。
その場合は、教師としての、専門的裁量の下で、職務を適正に遂行しなければならない。
しかし、それ以上に、生徒に対し、直接に教育するという場を離れた場面においては、(式典もその一つであるといえる)、
自らの思想、及び良心の核心に反する行為を、求められるということはない、というべきである。
なお、音楽教師が、式典において、「君が代」斉唱のピアノ伴奏を求められる場合に関しても、同様に考えることができる。

国旗、及び国歌に関する法律の制定に関しては、国論は分かれていたが、
政府の国会答弁では、国旗、及び国歌の指導に係る、教員の職務上の責務について、変更を加えるものではないことが示されており、
同法はそのように、強制の契機を有しないものとして、成立したものといえるであろう。
しかしながら、本件通達は、校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問うとして、
都立高等学校の教職員に対し、式典において、指定された席で、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することを求めており、
その意図するところは、前記歴史観、ないし世界観、及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、
その歴史観等に対する否定的評価を背景に、不利益処分をもって、その歴史観等に反する行為を、強制しようとすることにある、とみることができる。
本件各職務命令は、こうした本件通達に基づいている。
本件各職務命令は、直接には、上告人らに対し、前記歴史観、ないし世界観、及び教育上の信念を持つことを禁止したり、
これに反対する思想等を持つことを強制したりするものではないので、一見、明白に、憲法19条に違反するとはいえない。
しかしながら、上告人らの、不起立不斉唱という外部的行動は、上告人らの思想、及び良心の核心の表出であるか、
少なくともこれと、密接に関連している可能性があるので、これを許容せず、上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は、憲法審査の対象となる。
そして、上告人らの行動が、式典において、前記歴史観等を、積極的に表明する意図を持ってなされたものでない限りは、
その審査は、いわゆる厳格な基準によって、本件事案の内容に即して、具体的になされるべきであると思われる。
本件は、原判決を破棄し、差し戻すことを相当とする。


【2】上告人らの主張の中心は、起立斉唱行為を強制されることは、上告人らの有する歴史観ないし世界観、及び教育上の信念を、否定することと結び付いており、
上告人らの思想、及び良心を、直接に侵害するものである、というにあると理解できるところ、
多数意見は、式典において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する行為は、慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり、
その性質の点から見て、上告人らの有する、歴史観ないし世界観それ自体を、否定するものではないとしている。
多数意見は、式典における起立斉唱行為を、一般的、客観的な視点で、いわば多数者の視点で、そのようなものである、と評価しているとみることができる。
およそ精神的自由権に関する問題を、一般人(多数者)の視点からのみ考えることは、相当でないと思われる。
なお、多数意見が指摘するとおり、式典において、国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたことは、周知の事実であるが、
少数者の人権の問題である、という視点からは、そのことは、本件合憲性の判断には、いささかも関係しない。
前記歴史観ないし世界観、及び教育上の信念を有する者でも、その内面における深さの程度は様々であろう。
割り切って起立し、斉唱する者もいるであろう。
面従腹背する者もいるであろう。
起立はするが、声を出して斉唱しない、という者もいよう。
(なお、本件各職務命令では、起立と斉唱は一体であり、これを分けて考える意味はない。
不起立行為は、視覚的に明瞭であるだけに、行為者にとっては、内心の動揺は大きいとみることもできる。
他方、職務命令を発する側にとっても、斉唱よりもむしろ、起立させることが重要である、と考えているように思われる)。
しかし、思想及び良心として、深く根付き、人格的アイデンティティそのものとなっており、
深刻に悩んだ結果として、あるいは信念として、そのように行動することを潔しとしなかった場合、
そういった人達の心情や行動を、一般的ではないからとして、過小評価することは、相当でないと思われる。


【3】本件では、上告人らが抱いている、歴史観ないし世界観、及び教育上の信念が、
真摯なものであり、思想及び良心として、昇華していると評価し得るものであるかについて、
また、上告人らの不起立不斉唱行為が、上告人らの思想及び良心の核心と、少なくとも密接に関連する真摯なものであるかについて、(不利益処分を受容する覚悟での行動であることを考えると、おおむね疑問はないと思われるが)、
本件各職務命令によって、上告人らの内面において現実に生じた矛盾、葛藤、精神的苦痛等を踏まえ、まず、審査が行われる必要がある。
こうした真摯性に関する審査が肯定されれば、これを制約する本件各職務命令について、後述のとおり、
いわゆる厳格な基準によって、本件事案の内容に即して、具体的に、合憲性審査を行うこととなる。


【4】 平成11年8月に公布、施行された、国旗、及び国歌に関する法律は、僅か2条の定義法にすぎないが、
この制定に関しては、国論は分かれた。
政府の国会答弁では、繰り返し、国旗の掲揚、及び国歌の斉唱に関し、義務付けを行うことは考えていないこと、
学校行事の式典における、不起立不斉唱の自由を、否定するものではないこと、
国旗、及び国歌の、指導に係る教員の、職務上の責務について、変更を加えるものではないこと等が示されており、
同法は、そのように、強制の契機を有しないものとして、成立したものといえるであろう。
その限りにおいて、同法は、憲法と適合する。
これより先、平成11年3月告示の、高等学校学習指導要領は、
「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と規定しているが、
この規定を、高等学校の教職員に対し、起立斉唱行為を、職務命令として強制することの根拠、とするのは無理であろう。
そもそも、学習指導要領は、教育の機会均等を確保し、全国的に一定の水準を維持する、という目的のための大綱的基準であり、
教師による創造的、かつ弾力的な教育や、地方ごとの特殊性を反映した、個別化の余地が十分にあるものであって(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照)、
学習指導要領の、このような性格にも照らすと、上記根拠となるものではないことは、明白であると思われる。

国旗及び国歌に関する法律施行後、東京都立高等学校において、少なからぬ学校の校長は、内心の自由告知(内心の自由を保障し、
起立斉唱するかしないかは、各教職員の判断に委ねられる旨の告知)を行い、
式典は、一部の教職員に、不起立不斉唱行為があったとしても、支障なく進行していた。

こうした事態を、本件通達は、一変させた。
本件通達が、何を企図したものかに関しては、記録中の、東京都関連の各会議議事録等の証拠によれば、歴然としているように思われるが、原判決は、これを認定していない。
しかし、原判決認定の事実によっても、都教委は、教職員に起立斉唱させるために、職務命令について、
その出し方を含め、細かな指示をしていること、
内心の自由を、説明しないことを求めていること、
形から入り、形に心を入れればよい、形式的であっても、立てば一歩前進だ、などと説明していること、
不起立行為を把握するための方法等について、入念な指導をしていること、
不起立行為等があった場合、速やかに、東京都人事部に電話で連絡するとともに、事故報告書を提出することを求めていること、
等の事実が認められるのであり、
卒業式等には、それぞれ職員を派遣し、式の状況を監視していることや、
その後の戒告処分の状況をみると、本件通達は、式典の円滑な進行を図る、という価値中立的な意図で発せられたものではなく、
前記歴史観ないし世界観、及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き、
その歴史観等に対する、強い否定的評価を背景に、不利益処分をもって、その歴史観等に反する行為を強制することにあると、みることができると思われる。
本件通達は、校長に対して発せられたものではあるが、本件各職務命令は、本件通達に基づいているのであり、
上告人らが、本件各職務命令が、上告人らの有する前記歴史観ないし世界観、及び教育上の信念に対し、
否定的評価をしているものと受け止めるのは、自然なことであると思われる。
本件各職務命令の、合憲性の判断に当たっては、本件通達や、これに基づく本件各職務命令をめぐる諸事情を、
的確に把握することが、不可欠であると考えられる。


【5】本件各職務命令の合憲性の判断に関しては、いわゆる厳格な基準により、本件事案の内容に即して、
具体的に、目的・手段・目的と手段との関係を、それぞれ審査することとなる。
目的は、真にやむを得ない利益であるか、手段は、必要最小限度の制限であるか、関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。
結局、具体的目的である「教育上の、特に重要な節目となる儀式的行事」における「生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序を確保して、式典の円滑な進行を図ること」が、真にやむを得ない利益といい得るか、
不起立不斉唱行為が、その目的にとって、実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白で、害悪が極めて重大であるか(式典が妨害され、運営上重大な支障をもたらすか)を検討することになる。
その上で、本件各職務命令が、それを避けるために必要不可欠であるか、
より制限的でない、他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等、会場の外における役割を与え、不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することとなろう。


【6】以上、原判決を破棄し、第1に前記3の真摯性、第2に前記5の本件各職務命令の憲法適合性に関し、
改めて検討させるため、本件を原審に差し戻すことを相当とする』

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110606165018.pdf

本件では、さらに多数意見が指摘する「地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性」について、私の意見を付加しておくこととする。

第1審原告らは、地方公務員ではあるが、教育公務員であり、一般行政とは異なり、教育の目標に照らし、特別の自由が保障されている。
すなわち、教育は、その目的を実現するため、
学問の自由を尊重しつつ、幅広い知識と教養を身に付けること、
真理を求める態度を養うこと、
個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うこと、
等の目標を達成するよう行われるものであり(教育基本法2条)、
教育をつかさどる教員には、こうした目標を達成するために、教育の専門性を懸けた責任があるとともに、
教育の自由が保障されているというべきである。
もっとも、普通教育においては、完全な教育の自由を認めることはできないが、
公権力によって、特別の意見のみを教授することを、強制されることがあってはならないのであり、
他方、教授の具体的内容、及び方法について、ある程度自由な裁量が認められることについては、自明のことであると思われる(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照)。
上記のような目標を有する、教育に携わる教員には、幅広い知識と教養、真理を求め、
個人の価値を尊重する姿勢、創造性を希求する自律的精神の持ち主であること、等が求められるのであり、
上記のような教育の目標を考慮すると、教員における精神の自由は、取り分けて尊重されなければならないと考える。
個々の教員は、教科教育として、生徒に対し、国旗及び国歌について教育するという場合、
教師としての専門的裁量の下で、職務を適正に遂行しなければならない。
したがって、「日の丸」や「君が代」の、歴史や過去に果たした役割について、自由な創意と工夫により教授することができるが、
その内容は、できるだけ中立的に行うべきである。
そして、式典において、教育の一環として、国旗掲揚、国歌斉唱が準備され、遂行される場合に、これを妨害する行為を行うことは許されない。
しかし、そこまでであって、それ以上に、生徒に対し、直接に教育するという場を離れた場面においては、
自らの思想、及び良心の核心に反する行為を、求められることはないというべきである。
音楽専科の教員についても、同様である。
このように、私は、第1審原告らは、地方公務員であっても、教育をつかさどる教員であるからこそ、
一般行政に携わる者とは異なって、自由が保障されなければならない側面がある、と考えるのである』

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