オリヴィア・ニュートン=ジョンの'06年のシドニー・オペラハウスにおけるライブをWOWOWで見ました。70年代前半の曲では懐かしさと曲の歌詞の優しさに涙してしまったりもしましたが、ライブ後半ではショービジネスの素晴らしさを再認識しました。やっぱりショーって素晴らしい!
さて、蓮實重彦先生の'04年作品『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』を読みました。'02年秋から'03年初頭にかけて、せんだいメディアテークで行われた、蓮實先生による、ビデオ上映を伴う2時間のレクチャー3回分を文章化したものです。
音楽の演奏会や絵画の展覧会で19世紀に作られた作品ばかりに人が集まっている現在、将来の人々に対してこれこそ20世紀特有の文化遺産だと私たちが誇りを持っていえるものは「映画」なのだと、著者は言います。そしてレーニン、ヒトラー、ルーズヴェルトらに代表される政治家たちにいち早く利用されてきた「映画」というものの存在価値を、政治家が利用してきたことに留まることなく、より広くより明確にここで述べてみたいと著者は語ります。
そこで導入される視点は3つ、国籍と演出と歴史です。まず国籍について、映画ではほとんど意味を持ちえないことが、いくつかの実例とともに証明されていきます。そしてその中で、19世紀中頃から、文化的=歴史的なコンテクストを無視して、物語が換骨奪胎可能になっていった事実が指摘され、その2つの側面、すなわちモルフォロジー(物語の形態論)的な一貫性(p.54後半~)とテマティック(主題論的)な一貫性(p.55後半~)についても説明が行われます。そして20世紀の面白さは、モルフォルジーとテマティスムの一貫性において、ちょっとした細部の代置や置換が起こることによって、いきなり作品が表情を変えてしまうことにあり、構造は同じでありながら、模倣におけるわずかな差異が、全体の作品の質に大きな影響を与えるということが、20世紀特有の文化的な生産様式であると著者は主張し、その具体例として、溝口健二の『マリヤのお雪』が具体的な画面の提示を伴って語られます。
次に演出について。映画はごく僅かなもので成立していることが確認され、グリフィスの「映画とは、女と銃である」という言葉の引用から、映画は「男と女と銃」の要素で成立し、銃を他のものに置換することによってまったく違う作品ができあがることが、ロッセリーニの『イタリア旅行』などを実例として述べられていきます。その後、「男と女と階段」というテーマで成り立っている映画演出の好例として、無声映画、白黒トーキー、カラートーキーの3つの時代を生き抜いた映画監督ヒッチコックの作品『汚名』が取り上げられ、やはり実際の画面の提示を伴って語られていきます。(続きは明日へ‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
さて、蓮實重彦先生の'04年作品『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』を読みました。'02年秋から'03年初頭にかけて、せんだいメディアテークで行われた、蓮實先生による、ビデオ上映を伴う2時間のレクチャー3回分を文章化したものです。
音楽の演奏会や絵画の展覧会で19世紀に作られた作品ばかりに人が集まっている現在、将来の人々に対してこれこそ20世紀特有の文化遺産だと私たちが誇りを持っていえるものは「映画」なのだと、著者は言います。そしてレーニン、ヒトラー、ルーズヴェルトらに代表される政治家たちにいち早く利用されてきた「映画」というものの存在価値を、政治家が利用してきたことに留まることなく、より広くより明確にここで述べてみたいと著者は語ります。
そこで導入される視点は3つ、国籍と演出と歴史です。まず国籍について、映画ではほとんど意味を持ちえないことが、いくつかの実例とともに証明されていきます。そしてその中で、19世紀中頃から、文化的=歴史的なコンテクストを無視して、物語が換骨奪胎可能になっていった事実が指摘され、その2つの側面、すなわちモルフォロジー(物語の形態論)的な一貫性(p.54後半~)とテマティック(主題論的)な一貫性(p.55後半~)についても説明が行われます。そして20世紀の面白さは、モルフォルジーとテマティスムの一貫性において、ちょっとした細部の代置や置換が起こることによって、いきなり作品が表情を変えてしまうことにあり、構造は同じでありながら、模倣におけるわずかな差異が、全体の作品の質に大きな影響を与えるということが、20世紀特有の文化的な生産様式であると著者は主張し、その具体例として、溝口健二の『マリヤのお雪』が具体的な画面の提示を伴って語られます。
次に演出について。映画はごく僅かなもので成立していることが確認され、グリフィスの「映画とは、女と銃である」という言葉の引用から、映画は「男と女と銃」の要素で成立し、銃を他のものに置換することによってまったく違う作品ができあがることが、ロッセリーニの『イタリア旅行』などを実例として述べられていきます。その後、「男と女と階段」というテーマで成り立っている映画演出の好例として、無声映画、白黒トーキー、カラートーキーの3つの時代を生き抜いた映画監督ヒッチコックの作品『汚名』が取り上げられ、やはり実際の画面の提示を伴って語られていきます。(続きは明日へ‥‥)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)