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村上龍『村上龍映画小説集』その1

2014-01-05 11:09:00 | ノンジャンル
 朝日新聞で紹介されていた、村上龍さんの'95年作品『村上龍映画小説集』を読みました。12の短編からなる本です。
 『甘い生活』では、23歳の私は美術大学に通っていた。浪人中は、年上の女と同棲し、GIと付き合い、ありとあらゆる麻薬をやり、いろんな容疑で何度も留置場に入った。年上の女は、名前をキミコといって、1人でカクテルを飲んでいるところを私がヤクの名前で興味を惹き、それ以来夫がいるにもかかわらず、私を家に泊め、金の無心に夫の仕事場に押しかけるようにもなった。キミコは離婚し、私たちは横田基地の傍に引越したが、1年半の間に三度堕胎し、二度手首を切り、数えきれないほどの黒人GI達と関係を結び、一度心臓停止で病院に運ばれ、二度、逮捕された。そしてほとんど廃人のようになって親元に帰り、私は何とか大学にもぐり込んだ。大学は退屈で、サクライという青年とだけ友人となった。彼は映画が好きで、私も一緒に主にフェリーニとゴダールとアラン・レネを見た。ある日、キミコの元夫と出会い、彼女と別れられたことで感謝され、私は彼女は田舎で元気にやっていると彼に伝えたが、実際には彼女は精神病院に入っていた。サクライは私に脚本を書いてほしいと言い、私は主人公の見るものだけが映り、主人公の姿は現れない『廃墟の影』というシナリオを書いたが、未完成に終わった。常に二人の話題に上がりながら見ていない映画に『甘い生活』があった。それが一回だけ上映されるのを私は知って、サクライに連絡したが、彼は就職活動で見られないと言った。私は1人で『甘い生活』を見て、サクライに何かを伝えなければいけないと思い、彼がまだ帰ってきていない部屋のポストに「フェリーニはすごい。お前は映画をやれ、代理店なんか止めろ、一緒にいつか映画を作ろう」と書いた紙を入れた。卒業後、サクライは大手の代理店に入り、今は営業局にいる。私は小説家となり何本か映画も作っている。私たちは20年ぶりに仕事で一緒になった。その頃ちょうどフェリーニの新作が上映されていて、二人で観た後、やはりフェリーニはすごいや、と言い合った。私たちは手紙のことを話題にしないまま、路上で別れた。今でも時々、精神病院への入退院を繰り返しているキミコから長い手紙がくることがある。私は返事を書いたことがない。
 『ラストショー』では、18歳の私は九州から仲間とブルースバンドで成功しようと上京し、同居していた。予備校に行くと言って親の仕送りを受けていた私以外のメンバは、夜の間、ディスコやキャバレーで働き、昼間に楽器やボーカルの練習をして、有名バンドのコンサートに積極的に通ってコネクションを得て、レコード会社や各種プロダクションのオーディションを受ける、という計画を立てていた。しかしバイトでの拘束時間は予想よりも長く、昼に練習をすることは不可能で、計画は早いうちに頓挫した。やがて、バイトもせず予備校にも通わない私へのメンバーからの風当たりは強くなり、ある夜メンバーの1人とケンカとなり、私は外出せざるを得なくなった。公園を歩いていると、先日音楽がうるさいと怒鳴り込んできた、私たちの部屋の下に住むヤクザのタツミが声をかけてきて、アジサイの葉を摘むバイトをしないかと言ってきた。乾かして、細かくして、紙に巻いて売ると、匂いも味もマリファナそっくりになると言う。私は彼とアジサイの葉を摘み、彼の部屋に行って、その先の作業も手伝った。私はよりよく騙すために横須賀の連中から本物を買って、少量混ぜることを提案し、連中が新宿の店に来る時間になるまで、二人で『ラスト・ショー』という映画を観ることにした。タツミは「ものすごく年上の女を好きになっちまう奴ってアメリカにもいるんだな」と涙を流した。私たちはその後、ブツをさばいて、タツミの家に戻ると、タツミと同棲している年上の女が帰ってきていた。私も部屋に戻るとメンバーが心配して待っていてくれ、今度野外コンサートに出ることになったから見に来てくれと言われた。コンサートの後、公園を歩いているとき、突然『ラスト・ショー』に対する激しい憎しみが湧き起こった。タツミのようなタイプの人間に涙を流させるような、あんな映画は絶対に許せないと思った。(明日へ続きます‥‥)

→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/