万田邦敏監督・脚本の'92年作品「DRAMADAS 万田邦敏ちょっと恐怖劇場『胎児教育』」をDVDで見ました。“胎児教育において、妊婦の最も心がけなければならないのは、情緒の安定である。妊婦が必要以上に驚いたり、怒ったり、恐れたりすることほど、胎児に悪い影響を与えるものはない”の字幕。CDを12万円分も一遍に買う女性(桐生裕子)は注文していたCDが届いてないと店員に言われ、お腹の中にいるルミに話しかけ、私は怒る訳にいかないと言います。自宅でクラシック音楽を聞いていると、工事の音が聞こえてきて、女はヘッドフォンをします。夫が帰宅してチャイムを鳴らしても女は出ず、夫は鍵を開けて入ります。後ろから妻の髪にいきなりキスをする夫に「驚かせないで」と言う女。夫にまずルミに挨拶させ、食事の用意も夫がします。。市役所に工事を中止するよう頼んでほしいと夫に言う女。CDを35万も買ったことを指摘されると、女は「お願いだから怒らせないで」と言います。深夜、起き出した女は枕の下からノートを取り出し、「店員」「工事」など自分を怒らせたものの字を無数に書いていきます。日中、ヘッドフォンで気が付かないうちに見知らぬ男(ビートきよし)に侵入される女。怖くないと言いながら、膝はガクガク揺れています。女が胎教のために情緒を安定させようとしていると男は知ると、わざと女を驚かせます。胎児に向けて「こういうおじちゃんがいるのがこの世の中なんだ」と話す男。男を夫の友人扱いし始める女。「お金を取ったので、もう帰ってくれる」と女がルミに話しかけると、次のショットで女は後ろ手に縛られ、猿ぐつわをされ、床に倒されていました。そして夫が帰宅するところで映画は終わります。
小津風の対話ショットが見ることができ、ラストは『接吻』を予感させる見事なものでした。
さて、朝日新聞で紹介されていた、保田興重郎の『日本の橋』と大岡信『保田興重郎ノート』と大岡信『うたげの孤心』を読みました。
『保田興重郎ノート』の冒頭部分を引用すると、「かつて立原道造について小論を書くためかれの全集を通読したとき、ぼくにもっとも強い印象を残したのは、同時代の青春の『惨落』を言い、『僕らすべてを襲つているこの終末感』について語りながら、ほどんど故意に『共同体といふものの力への、全身での身の任せきり』の方向へ自己の精神を振り向け、順応させていこうとする立原の姿勢であった。この姿勢は、そのままかれの日本ロマン派への接近を準備したものでもあった。かれは結局、死の数カ月前にこの接近の無意味であったことを自覚し、日記の中でかれらへの訣別の言葉を記しているが、その時かれの自覚をうながしたものは日本ロマン派の本質を見抜いたがための憎悪ではなく、『コギトがちのあまりにつめたく、愛情のグルントのない文学者の観念』に対する、立原的な、あまりに立原的な嫌悪の情だった。
立原のいわゆる『惨落』からする『共同体』への接近は、主観的な内面生活における極度の個人主義が、危機に直面した場合、政治的権威に対する一種盲目的な従順さとしばしば結びつく、近代日本のインテリゲンチアに特有な精神的もろさのひとつの例だと言えるし、それはまた『変様に無限に出発する生』をかあれが芳賀壇にならって謳ってみても、実はそれがどうにも動きのとれない、つまり変様しようのない生のつぶやいたレトリックにすぎなかったことと表裏の関係をなすものだった。一切を知り、全体を体験したいと願うファウスト的欲求が立原のそうしたレトリックの深部にうごめいていたことはたしかだが、実際には、かれがそのような欲求を強めれば強めるほど、かれの精神は事物の洞察的認識から遠ざかり、事物の多様な表面の単なる多様性を無差別に記録するにとどまるという結果を招いた。何かが大きく間違っていた。しかし立原にはそれをどう転換することもできなかったのだ。それはかれの危機が純粋に内面的な破壊作用としてしか働かなかったためだと言ってしまえばそれまでのことかもしれぬ。(後略)」
3册とも詩に関する評論で、私にとって詩は最も苦手とする分野であるだけに、これらの本を読破するにはほとんど不可能でした。上記の文章もほとんど理解できず、3册とも数ページ読んだだけで、その先を読むのを断念してしまいました。上記の文章の内容がすらすらと頭の中に入ってくる方にはお勧めです。
→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
小津風の対話ショットが見ることができ、ラストは『接吻』を予感させる見事なものでした。
さて、朝日新聞で紹介されていた、保田興重郎の『日本の橋』と大岡信『保田興重郎ノート』と大岡信『うたげの孤心』を読みました。
『保田興重郎ノート』の冒頭部分を引用すると、「かつて立原道造について小論を書くためかれの全集を通読したとき、ぼくにもっとも強い印象を残したのは、同時代の青春の『惨落』を言い、『僕らすべてを襲つているこの終末感』について語りながら、ほどんど故意に『共同体といふものの力への、全身での身の任せきり』の方向へ自己の精神を振り向け、順応させていこうとする立原の姿勢であった。この姿勢は、そのままかれの日本ロマン派への接近を準備したものでもあった。かれは結局、死の数カ月前にこの接近の無意味であったことを自覚し、日記の中でかれらへの訣別の言葉を記しているが、その時かれの自覚をうながしたものは日本ロマン派の本質を見抜いたがための憎悪ではなく、『コギトがちのあまりにつめたく、愛情のグルントのない文学者の観念』に対する、立原的な、あまりに立原的な嫌悪の情だった。
立原のいわゆる『惨落』からする『共同体』への接近は、主観的な内面生活における極度の個人主義が、危機に直面した場合、政治的権威に対する一種盲目的な従順さとしばしば結びつく、近代日本のインテリゲンチアに特有な精神的もろさのひとつの例だと言えるし、それはまた『変様に無限に出発する生』をかあれが芳賀壇にならって謳ってみても、実はそれがどうにも動きのとれない、つまり変様しようのない生のつぶやいたレトリックにすぎなかったことと表裏の関係をなすものだった。一切を知り、全体を体験したいと願うファウスト的欲求が立原のそうしたレトリックの深部にうごめいていたことはたしかだが、実際には、かれがそのような欲求を強めれば強めるほど、かれの精神は事物の洞察的認識から遠ざかり、事物の多様な表面の単なる多様性を無差別に記録するにとどまるという結果を招いた。何かが大きく間違っていた。しかし立原にはそれをどう転換することもできなかったのだ。それはかれの危機が純粋に内面的な破壊作用としてしか働かなかったためだと言ってしまえばそれまでのことかもしれぬ。(後略)」
3册とも詩に関する評論で、私にとって詩は最も苦手とする分野であるだけに、これらの本を読破するにはほとんど不可能でした。上記の文章もほとんど理解できず、3册とも数ページ読んだだけで、その先を読むのを断念してしまいました。上記の文章の内容がすらすらと頭の中に入ってくる方にはお勧めです。
→「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)