ジェームズ・キャメロン監督の'93年作品『アビス・完全版』をWOWOWシネマで見ました。超高速で移動する物体を追っていて崖に激突し沈んだアメリカの原潜の乗組員の救出のために派遣された、海底の石油採掘クルーたちに起こる出来事を描いた映画で、ハリケーンのによる海上のクレーンの崩落で陥る海底基地の危機、原潜から取り出した核弾頭を起爆させようとする狂った大尉との戦い、浸水した深海艇から海底基地に戻る際、1人分の酸素を使って妻を仮死状態で運び蘇生させる現場リーダーの決断、液体酸素を使って海溝に降り、核弾頭の起爆装置を破壊する困難、それを行なった現場のリーダーを救う宇宙生命体との遭遇、その生命体によって人類を滅ぼすために起こされる巨大津波、そしてラスト、海上に現れる巨大な宇宙船というように、次々と用意されるイベントに3時間弱の長さもちっとも退屈でなく、深海艇のきれいな照明や、宇宙生命体の造形は、まさに海底版『未知との遭遇』でした。
また、伊藤大輔監督・原案・脚本の'63年作品『この首一万石』もスカパーの東映チャンネルで見ました。御用道中に雇われたものの、人足代を嵩増した武士の責任を負わされ、殺されてしまう人足を大川橋蔵、橋蔵と相思相愛の長屋育ちの武士の娘を江利チエミ、その父を東野英治郎、橋蔵の人足仲間を堺駿二と大坂志郎、人足頭を吉田義夫、代官を平幹二朗、良い武士を水原弘が演じていて、ラストの橋蔵が槍を持った血みどろの殺陣が印象的でした。
また、伊藤大輔監督・脚本の'65年作品『徳川家康』もスカパーの東映チャンネルで見ました。家康の母の嫁入りから桶狭間の戦いまでを描いたもので、織田信長を中村錦之助、家康を北大路欣也、家康の父を田村高廣、母を有馬稲子、祖父を加藤嘉、家康の重臣を内田朝雄と天津敏、家臣を山本麟一、今川義元を西村晃が演じ、他にも桜町弘子、山本圭、三島雅夫、千田是也らが出演していました。幼い家康が激しい波が打ち寄せる浜辺で拉致される、おどろおどろしい場面などもありましたが、台詞と演技が演劇的なのが気になりました。
さて、山田太一さんがアフォリズムが満載されていると言っていた、フォースターの'36年作品『フォースター評論集』を読みました。
表紙に「フォースター理解の鍵とされる」と書いてある「私の信条」の冒頭部分を引用させていただくと、「私は絶対的信条を信じない。しかし現代は信念の時代で、無数の戦闘的信条が横行しているから、自衛上誰も自分の信条を作らざるをえない。宗教的、民族的迫害によって引き裂かれた世界、無知がのさばって、本来なら支配者の位置についていいはずの科学が卑屈なおべっかつかいになりさがっている世界では、寛容とか善意、同情などでは間にあわないのである。寛容、善意、同情、ほんとうはこういうものこそ大事なのであって、人類が滅亡を免れるとすれば、遠からずまたこういうものが前面に出てくることだろう。だが、目下のところは、それは役に立たず、こういうものの働きは、軍靴に踏みにじられる一本の花も同じになっている。寛容、善意、同情といった精神は、たとえそのためにいささか粗野になろうと、みずから硬化する必要があるのだ。信条というのは、おそらく硬化というか、いわば心の糊づけであって、糊はなるべく少ないほうがいい。私は糊は嫌いである。こういうつっぱるものは、それだけで嫌なのだ。その点で、私は絶対的信条の価値を信じる世間の人たちとは違っているのだろうが、彼らにはあの程度しか信じるものがなくて気の毒に、と思うばかりである。私の立法者はエラスムスとモンテーニュであって、モーゼでもパウロでもない。私が詣でる社があるのはモリアの聖山ではなく、背徳者でさえ入れてもらえるというギリシャの極楽――エリューシオンの野である。私は『神よ、私は信じません――どうか許したまえ』をモットーとする。‥‥」
この本も数ページ読んだだけで、先を読むことを断念しました。理由は『歴史とユートピア』と同じです。「プルースト」、「T・S・エリオット」、「ヴァージニア・ウルフ」、「ジョージ・オーウェル」など、魅力的な章立てがあっただけに残念でした。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
また、伊藤大輔監督・原案・脚本の'63年作品『この首一万石』もスカパーの東映チャンネルで見ました。御用道中に雇われたものの、人足代を嵩増した武士の責任を負わされ、殺されてしまう人足を大川橋蔵、橋蔵と相思相愛の長屋育ちの武士の娘を江利チエミ、その父を東野英治郎、橋蔵の人足仲間を堺駿二と大坂志郎、人足頭を吉田義夫、代官を平幹二朗、良い武士を水原弘が演じていて、ラストの橋蔵が槍を持った血みどろの殺陣が印象的でした。
また、伊藤大輔監督・脚本の'65年作品『徳川家康』もスカパーの東映チャンネルで見ました。家康の母の嫁入りから桶狭間の戦いまでを描いたもので、織田信長を中村錦之助、家康を北大路欣也、家康の父を田村高廣、母を有馬稲子、祖父を加藤嘉、家康の重臣を内田朝雄と天津敏、家臣を山本麟一、今川義元を西村晃が演じ、他にも桜町弘子、山本圭、三島雅夫、千田是也らが出演していました。幼い家康が激しい波が打ち寄せる浜辺で拉致される、おどろおどろしい場面などもありましたが、台詞と演技が演劇的なのが気になりました。
さて、山田太一さんがアフォリズムが満載されていると言っていた、フォースターの'36年作品『フォースター評論集』を読みました。
表紙に「フォースター理解の鍵とされる」と書いてある「私の信条」の冒頭部分を引用させていただくと、「私は絶対的信条を信じない。しかし現代は信念の時代で、無数の戦闘的信条が横行しているから、自衛上誰も自分の信条を作らざるをえない。宗教的、民族的迫害によって引き裂かれた世界、無知がのさばって、本来なら支配者の位置についていいはずの科学が卑屈なおべっかつかいになりさがっている世界では、寛容とか善意、同情などでは間にあわないのである。寛容、善意、同情、ほんとうはこういうものこそ大事なのであって、人類が滅亡を免れるとすれば、遠からずまたこういうものが前面に出てくることだろう。だが、目下のところは、それは役に立たず、こういうものの働きは、軍靴に踏みにじられる一本の花も同じになっている。寛容、善意、同情といった精神は、たとえそのためにいささか粗野になろうと、みずから硬化する必要があるのだ。信条というのは、おそらく硬化というか、いわば心の糊づけであって、糊はなるべく少ないほうがいい。私は糊は嫌いである。こういうつっぱるものは、それだけで嫌なのだ。その点で、私は絶対的信条の価値を信じる世間の人たちとは違っているのだろうが、彼らにはあの程度しか信じるものがなくて気の毒に、と思うばかりである。私の立法者はエラスムスとモンテーニュであって、モーゼでもパウロでもない。私が詣でる社があるのはモリアの聖山ではなく、背徳者でさえ入れてもらえるというギリシャの極楽――エリューシオンの野である。私は『神よ、私は信じません――どうか許したまえ』をモットーとする。‥‥」
この本も数ページ読んだだけで、先を読むことを断念しました。理由は『歴史とユートピア』と同じです。「プルースト」、「T・S・エリオット」、「ヴァージニア・ウルフ」、「ジョージ・オーウェル」など、魅力的な章立てがあっただけに残念でした。
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)