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金井美恵子『金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013]1 夜になっても遊びつづけろ』

2014-07-20 09:32:00 | ノンジャンル
 今日はケネディ亡き後、アメリカのリベラルの象徴だったジョージ・マクガバンの生誕92年に当たります。改めて彼の存在を思い出したいと思います。

 さて、金井美恵子さんの'13年作品『金井美恵子エッセイ・コレクション[1964-2013]1 夜になっても遊びつづけろ』を読みました。
 「若者たちは無言のノンを言う」と題された文章の冒頭の部分を引用させていただくと、「若さとか青春と言うのは一体何なのだろう? この二つの言葉はわたしにとって禁句であり、とても恥ずかしくて口にしたり書いたりすることの出来ない言葉に属しているわけなのだが、おそらく、それが何であるのかあったのか理解出来るということは、若さや青春とわたしがおさらばする決意が出来た時のことだろう。
 ところで、わたしはアドレッセンスの後半に近い時点で、成熟の不可能性を夢見ながら現実には年をとって行く他、術がないようだ。青春の最中にあって、単に自分が年若いということのためだけに、未来の可能性を信じて勇気百倍的やるぞ見ておれ的これが青春だ的希望を胸にふくらませる若いのがいたとしたら、わたしはその単純さを、若さの特権だなどとは少しも思わない。このさい若さの特権という概念を、バラ色的人生観から徹底的にひっぺがしてしまうことこそ急務であると言いたいところだけど、わたしはそれ程あわてふためいているわけではない。最近の若いのたちを薄っすらと染めあげている、なんとなくうさん臭いダンダラ縞のハレーションを起している多様な虹色の風景は、性急にテンポラルな視点から結論づけてしまえる性(たち)のものではないし、そうした視点の常に持つ、一種の軽々しい割り切り方が、常に実に何も言ってはいないということを考えれば、おそらく風景をバックにしているわたしまでもが、あわてて結論を見つけたがる人たちの尻馬に乗ってみせることもない。
 戦後の風潮の一つなのだがいつの時代を見ても、その時々の若ものたちがマス・コミと大衆の好奇心の対象にされなかった時代はなかった。アプレから始まり、太陽族、あるいは1958年ごろからさかんに使われはじめたハイ・ティーンという言葉、六本木族、みゆき族、原宿族、フーテン族、とまあマス・コミは※※族を年中行事のように作り出して、少年少女たちのチンケな行動を期待している大衆に答えていたし、答えつづけるだろうとも言えるわけだ。そういう意味では、すべての※※族は半分はマス・コミの作り出した幻影にすぎないという認識を持つことも、無駄ではないはずである。フーテンの視覚的な異様さを無気味に感じるあなたたちのために、マス・コミはフーテン族のことを報道し(それが報道と呼べるならば)、今年の夏ももう終ったのだが、まだ終ってはくれない日々が漠然とわたしたちを待っている。
 他の※※族と、いわゆるフーテン族との決定的な相違は、おそらくフーテンたちの貧しさと非行動的なところにあるだろう。むろん、ここでフーテンと言ってみても、僕らの内容は千差万別玉石混淆様々雑多。何がフーテンなのだかそうでないのか皆目見当がつかない。
 世間には、若いころはあたしもフーテンだったのヨと、ひたすら物分りの良いシンパ小母さんたちというのがいて、小母さんを見ていると、アドレッセンス期のハシカというのがあるように思われて来る。小母さんは先輩らしい鷹揚な微笑を浮かべ、そりゃあ、あなたなんていったって若いうちよ! 若い時は何だって出来るのよ、盲蛇におじずって言うでしょう、などとむかしやがって、目尻に小ジワよせて無理算段の時流に遅れまいという決意も、見あげた心意気と言いたいところだが、やっぱり小母さんたちにはおひきとり願ってもらうことにしなくてはならない。あんたがたの時代とは時代の大勢が変わっているんだよ、と切りたくもない見得を切ってみせなくてはならないのは、もっぱら、小母さんたちが歴史を無視するところに由来している。あるいは、若さとは青春とかいうものに対する無批判的な彼女たちのアコガレに。‥‥」

 全500ページを超える中で、30ページ弱読んだだけで、先を読むことを断念しました。やはり私の理解力を超えた文章ばかりでした。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/