’23年1月から’27年9月にかけて月刊誌『文藝春秋』に掲載された、芥川龍之介の『侏儒の言葉』を読みました。朝日新聞で紹介されていた、芥川流のアフォリズム集です。
気に入った文章をいくつか引用させていただくと、
・「道徳は便宜の異名である。『左側通行』と似たものである。」
・「道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である」
・「妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。」
・「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我々は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。」
・「強者は道徳を蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるだろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。」
・「道徳は常に古着である」
・「良心は我々の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我々は良心を得るためにも若干の訓練を要するものである。」
・「一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。」
・「我我の悲劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、まだ良心を捉え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
我々の喜劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。」
・「良心は厳粛なる趣味である。」
・「良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だかつて、良心の良の字も造ったことはない。」
・「良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そういう愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。」
・「わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我々の好悪である。あるいは、我々の快不快である。そうとしかわたしには考えられない」
・「どうか一粒の米すらないほど、貧乏にして下さいますな。どうかまた熊掌にさえ飽き足りるほど、富裕にもして下さいますな。
どうか採桑の農婦すら嫌うようにして下さいますな。どうかまた後宮の麗人さえ愛するようにもして下さいますな。
どうか菽麦すら弁ぜぬほど、愚昧にして下さいますな。どうかまた雲気さえ察するほど、聡明にもして下さいますな。
とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀(よ)じ難い峰の頂を窮め、越え難い海の浪を渡り------いわば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そういう夢を見ている時ほど、空恐ろしいことはございません。わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように------英雄の志を起こさぬように力のないわたしをお守りくださいまし。
わたしはこの春酒に酔い、この金縷(きんる)の歌を誦(じゅ)し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます」
・「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、いわゆる光栄を好んだりするのは今更ここにいう必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮をなにとも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。
この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひどおし)の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も------わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
・「正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈をつけさえすれば、的にも味方にも買われるものである。古来『正義の敵』という名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの『正義の敵』だか、めったに判然したためしはない」
・「人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にあるはずはない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかしまた権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配するためにも、暴力は常に必要なのかも知れない。あるいはまた必要ではないのかも知れない。」
・「完全に幸福になり得るのは白地にのみ与えられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それはただ如何に幸福に絶望するかということのみである。」(明日へ続きます……)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)
気に入った文章をいくつか引用させていただくと、
・「道徳は便宜の異名である。『左側通行』と似たものである。」
・「道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である」
・「妄(みだり)に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。」
・「我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我々は殆ど損害の外に、何の恩恵にも浴していない。」
・「強者は道徳を蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるだろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。」
・「道徳は常に古着である」
・「良心は我々の口髭のように年齢と共に生ずるものではない。我々は良心を得るためにも若干の訓練を要するものである。」
・「一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。」
・「我我の悲劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、まだ良心を捉え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。
我々の喜劇は年少のため、あるいは訓練の足りないため、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。」
・「良心は厳粛なる趣味である。」
・「良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だかつて、良心の良の字も造ったことはない。」
・「良心もあらゆる趣味のように、病的なる愛好者を持っている。そういう愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。」
・「わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。ただ我々の好悪である。あるいは、我々の快不快である。そうとしかわたしには考えられない」
・「どうか一粒の米すらないほど、貧乏にして下さいますな。どうかまた熊掌にさえ飽き足りるほど、富裕にもして下さいますな。
どうか採桑の農婦すら嫌うようにして下さいますな。どうかまた後宮の麗人さえ愛するようにもして下さいますな。
どうか菽麦すら弁ぜぬほど、愚昧にして下さいますな。どうかまた雲気さえ察するほど、聡明にもして下さいますな。
とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀(よ)じ難い峰の頂を窮め、越え難い海の浪を渡り------いわば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そういう夢を見ている時ほど、空恐ろしいことはございません。わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように------英雄の志を起こさぬように力のないわたしをお守りくださいまし。
わたしはこの春酒に酔い、この金縷(きんる)の歌を誦(じゅ)し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます」
・「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、いわゆる光栄を好んだりするのは今更ここにいう必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮をなにとも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されれば、何のために戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。
この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅(ひどおし)の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も------わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
・「正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈をつけさえすれば、的にも味方にも買われるものである。古来『正義の敵』という名は砲弾のように投げかわされた。しかし修辞につりこまれなければ、どちらがほんとうの『正義の敵』だか、めったに判然したためしはない」
・「人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にあるはずはない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかしまた権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配するためにも、暴力は常に必要なのかも知れない。あるいはまた必要ではないのかも知れない。」
・「完全に幸福になり得るのは白地にのみ与えられた特権である。如何なる楽天主義者にもせよ、笑顔に終始することの出来るものではない。いや、もし真に楽天主義なるものの存在を許し得るとすれば、それはただ如何に幸福に絶望するかということのみである。」(明日へ続きます……)
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/)