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上野昴志『成瀬巳喜男の1960年代と現在』その1

2019-04-08 18:37:00 | ノンジャンル
 国立映画アーカイブが2005年に開催した「生誕百年特集 映画監督 成瀬巳喜男」のパンフレットに寄せられた上野昴志さんの『成瀬巳喜男の1960年代と現在』を全文転載させていただきます。

 たとえばいま、成瀬巳喜男の映画について考えるとして、『女が階段を上る時』、『娘・妻・母』、『夜の流れ』、『秋立ちぬ』の4作品を並べて云々するというようなことをするだろうか。題材から入っていくとすれば、『娘・妻・母』と『秋立ちぬ』を並べて比較したり、『女が階段を上る時』と『夜の流れ』を対比するというようなことになるかもしれぬが、それにしても、「成瀬巳喜男というようなのれんの古い大旦那が、ショッピングセンターの若旦那のような川島雄三と組んで」(淀川長治「キネマ旬報」264号)作った『夜の流れ』を、純然たる成瀬作品として語るのには躊躇するだろうし、いずれにせよ、強いてこれらを横並びにして考えるよりは、作られた時代に関係なく、もっと自由に対比させたり連関させるにふさわしい作品を選ぶのではないだろうか。
 こと改めてそんなことをいうのは、現在のわれわれが立っている場所と、これらの作品が、新作として登場してきたそのときとでは、同じ作品を問題にするのにも明らかな違いがあると思われるからである。この4作品は、1959年から60年にかけて製作・公開されているが、そのとき、同時代において1作ごとこれらに対するのと、1930年から67年までの37年間にわたる作品を、見られないものがあるとしても、とにかく成瀬作品として一望のもとに見渡しつつ考えるのでは、大きく隔たっているのである。これは、たんに時間的な隔たりではない。時代の変化を含めての映画をとりまく環境や、そのなかでの観客の意識や批評のあり方において、亀裂といってもいいほどの隔たりがあるのだ。それが、どのようなものだったのかを探ることで、成瀬が生きていた60年代と現在の差異を考えてみたい。
 実際、自分自身のこととしても、45年前に成瀬をどう見ていたのかはっきりと思い出すことができない。この4作品についても、『女が階段を上る時』はたしかに見た記憶があるが、それ以外はどうだったのか、はなはだ心許ない。まして、そこからどんな印象を受けていたのかとなると、さらに曖昧になる。ただ『女が階段を上る時』は、大学に入ったばかりの自分には銀座のバーなど知る由もなかったものの、高峰秀子が登っていく階段や、仲代達也がグラスを磨いているカウンターなどは、新宿あたりのトリスバーでもあれに近い造作は見ていたから、感じはよくわかったし、その薄暗い光線のなかに浮かび上がる高峰や仲代の顔は、なぜかのちのちまで長く記憶に残っていた。また、高峰の部屋における森雅之の顔や、高峰が加藤大介の家を訪ねていってその妻と話をしたあとの呆然とした立ち姿、そして、その地方に転勤になる森雅之を高峰が送っていったときの夜の駅の佇まいなどは、どうかした拍子にふと記憶の映像に甦ってきたりもしたが、それ以上に意識的にこの作品について考えようとはしなかったし、友だちなどと映画の話をするときに話題にのぼるようなこともなかった。
 ごく平凡なことだが、そんな折りに話題にのぼったのは、ゴダールであり、レネやルイ・マルやワイダや大島渚や吉田喜重であった。むろん、成瀬巳喜男という監督を知らなかったわけではないけれど、『浮雲』(1955年)の監督だということは知っていた。高峰秀子や森雅之のどこか疲れたような顔の記憶が、『女が階段を上るとき』の印象につながっていたと思うのだが、これ自体が、わたしの偽記憶でないという保証はない。だいたい、『浮雲』が公開されたとき、わたしは中学生だったのだから、常識的に考えればそのとき見ているはずはないのである。にもかかわらず、これが強く記憶に残っていたのは、両親がしきりにこの作品を話題にしていたからである。それを傍らで耳にしたわたしが、好奇心に駆られてこっそり親に隠れて見に行った可能性がないでもない(親に隠れて映画に行くのは、当時の中学生にとって当たり前のことだった)が、かりにそうだったとしても、中学生のわたしが『浮雲』に感動することはなかっただろう。もしかしたら、見たことすら後悔しながら、それでも高峰や森の顔の記憶につきまとわれていたかもしれない。だが、むろん、それも定かではない。(明日へ続きます……)