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金子文子『何が私をこうさせたか 獄中手記』その1

2019-10-10 05:51:00 | ノンジャンル
 2017年に岩波文庫の中の一冊として刊行された金子文子さんの著書『何が私をこうさせたか 獄中手記』を読みました。評論家の斎藤美奈子さんは次のような紹介文を東京新聞に載せています。

 『何が私をこうさせたか』は、関東大震災後に連行され、獄中で二十三歳の生涯をとじた金子文子(ふみこ)の獄中手記だ。金子文子は今日でいう児童虐待の犠牲者といってもいいだろう。出生届が提出されず、子ども時代は無籍者だった。ゆえに小学校も通えず、親たちの都合で親戚の家を転々とし、九歳からの七年間は父方の親戚に引き取られ、朝鮮半島ですごした。祖母や叔母の虐待に加えて、朝鮮人の使用人に対する容赦ない仕打ち。そんな悲惨な少女時代なのに、手記はおそろしく明晰かつ率直で、みるみる引き込まれる。そして手記は彼女が上京し、朴烈と出会うあたりで終わる。」

では、次に山田昭次さんによる「解説」を転載させていただくと、

「金子文子の天皇制国家に対する裁判闘争」
 1923年9月1日午前11時58分に関東大震災が起こった。その後2日までに5回にわたって余震が発生した。地震が起こると、まもなく「朝鮮人が殺傷・略奪・放火した」とか、「朝鮮人と社会主義者が放火した」という流言が東京や横浜、及びその周辺地帯に発生し、1日の夜から軍隊・警察官・民衆による朝鮮人虐殺事件が起こった。
 当時、東京府豊多摩(とよたま)郡代々木富ヶ谷に住んでいた金子文子とその夫朴烈(パクヨル)は、3日に第一師団に所属する下士官によって逮捕され(中略)、保護検束の名目で世田谷警察署に逮捕された(中略)。保護検束期限の24,時間が過ぎると、警察犯処罰令の「一定の住居又は生産なくして諸方に徘徊する者」の該当者として拘留29日を即決された(中略)。
 その後警視庁は1923年9月中旬に不逞(ふてい)社の参加者たちを次々と逮捕し、10月20日には東京地方裁判所検事局は文子や朴烈を含む16名を治安警察法違反容疑で起訴し、彼らに対する尋問を行い始めた(中略)。
 不逞社とは、1923年4月に文子と朴烈の発案により日本人や在日朝鮮人の青年たち20余人ほどが参加して成立した集まりで、その目的は「民族的でも無く、社会主義でもなく、只叛逆と云ふ事」に決められていた(中略)。例会では無政府主義者の画家望月桂や民衆芸術論者の加藤一夫や文学と政治にまたがって活動をしていた中西伊之助を招いてその講演会を開催した。
 1924年1月22日に文子は東京地裁で尋問を受けた際に、皇族や政治の実権者の「両者の階級に対し爆弾を投げ様かと考へた事もあり、朴と同棲後其の話合をした事も在った位であります」と語った(中略)。その後1,月25日に尋問を受けた際に文子は、皇族と政治の実権者に対し爆弾を投げるために朴烈と相談の上、朴がアナーキスト金重漢(キムジュンハン)に上海からの爆弾入手を依頼したこともあったと陳述した(中略)。その結果、2月15日に東京地裁検事局は朴烈、文子、金重漢三名を爆発物取締罰則違反の容疑で追起訴し、その他の不逞社員を免訴にした(中略)。
 1925年5月4日に立松懐清予審判事は文子に対して、「被告の所為は或は此刑法第七十三条の罪に該(あた)るかの様にも思はるゝ。若(も)しさうだとすると、大審院管轄事件として取扱はるゝ訳だが、被告の之迄(これまで)の申立は真実夫(そ)れに相違ないか」と言った(中略)。刑法第七十三条には「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、又は皇太孫に対し危害を加え又は加えんとしたる者は死刑に処す」と規定されていた。しかも刑法七十三条被適用者は裁判所構成法第五〇条第二項によって大審院の審理が「第一にして終審」と定められていた。従って刑法七十三条を適用されて大審院の裁判に廻されることは、確実に死刑を宣告されることを意味した。
 立松は既にそれまでにも文子に対して七回も転向を求めていたが、この日も「被告は何んとかして反省する訳に行かぬか」と言ったが、しかし文子はやはり転校を拒否した(中略)。しかしさすがに文子も死刑が確実な大審院廻しになったことについてはひどく悶え、彼女が執筆した「二十六日夜中」には「約一ヶ月ばかり御飯もろくろく咽喉を通らず、昔から痩せたと云はれる程苦しみました」と記されている。

(明日へ続きます……)

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