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金子文子『何が私をこうさせたか 獄中手記』その5

2019-10-14 05:11:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 文子は東京に着くと、台東区三ノ輪に住む大叔父を訪ねた。しかし大叔父は東京で苦学するという文子の意図に賛成せず、堅気な商人とでも結婚することを勧めた。しかし文子はここに来て一ヵ月ほどした頃に上野の白旗新聞店に住み込み、夕方から夜中まで街頭で新聞を売り、日中に英語は神田の正則学校で、数学は研数学館で学んだ。文子は女学校卒業の検定試験を受けた上で女子医専に進もうと考えていたのであった。
 文子は学校で朝鮮人や日本人の社会主義者と知り合い、組合の機関誌やパンフレット、リーフレットを通じて社会主義を知るようになった。ただし自伝では文子は「社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいということの理論を与えてくれただけのことであった」と記している。しかし朝鮮の祖母の周囲で圧迫や搾取を受けている朝鮮人に限りない同情を寄せた文子の心に「ぱっと火をつけたのが社会主義思想であった」と自伝に記されている。
 文子は玄という朝鮮人社会主義者と知り合った。彼は東洋大学の哲学科に在籍する学生だった。文子は彼と結婚を約束し、玄は家をもつことまで約束した。しかし玄はその約束を破棄して、ドイツに留学してしまった。こうした結果、文子は大叔父の家にも居たたまらなくなってその家を出て、日中は日比谷の小料理屋で働き、夜は学校に行った。この小料理屋の主人は社会主義の同情者だったので、新聞記者や会社員、文士と言ったインテリが集まった。
 その頃文子は玄の友人の鄭から鄭が発行する月刊雑誌の校正刷りに掲載されている力強い詩に気づいた。文子はその詩に心を強く引きつけられた。その作者は朴烈という人物だった。
 文子はある寒い日の夜に鄭の宿を訪ねた。そこに一人の客がいたが、「失礼します」と言って部屋を出て行った。鄭は「今晩はどこに泊まりますか、僕のところへ泊って行っていいですよ」と言うと、その客は「ありがとう、今晩は駒込の友人のところへ泊めてもらいます」と、落ちついた寂しい声で答えた。文子はここで彼が彼女が感心した詩の作者朴烈であることを知った。当時朴烈はこれという職もなく、一晩ごとに親しい友人の処に泊まり歩いて過ごしているらしかった。それでいてどっしりして王者のような彼の態度に文子は魅力を強く感じ、文子が探しているもの、したがっている仕事が彼の中にあると感じた。彼に会いたい文子は、鄭に朴烈が文子が働いている日比谷の小料理屋に来てくれるよう伝言を頼んだ。それから一ヵ月くらい経った頃に朴が小料理屋を訪ねて来た。夜になってから文子は朴烈と電車通りに出て別れた。その時文子は明日も来て欲しいと頼んだ。朴烈は翌日の昼頃にやってきた。文子は今晩文子が通っている神田の正則学校の前に来てくれるように彼に頼んだ。約束通りに朴は学校の前の街路樹の下で待っていた。文子は朴を連れて神田の神保町通りの中国料理屋に行って食事をしながら朴に配偶者または恋人の有無を訊ね、もしあればただ同志としてでも交際して欲しいと言った。朴は独身だと答えた。すると文子は「お互いに心の中をそっくりそのまま露骨に話せるようにして下さいな」と言い、最後に「私はあなたのうちに私の求めているものを見出しているんです。あなたと一緒に仕事ができたらと思います」と言った。これが文子の求婚の言葉だった。
 朴は自分が朝鮮慶尚北道の田舎に生まれ、普通学校に入学し、独立運動にも参加したが、支配者が変わったところで、民衆には何のかかわりもないと考え、十七歳の春に東京に来たことを話した。文子はこの日の別れ際に「待って下さい。もう少しです。私が学校を出たら私達はすぐに一緒になりましょう。その時は、私はいつもあなたについています」と言った。
 文子はここで手記を終わらせて、次のように書いた。
「私の手記はこれで終る。これから後のことは、朴と私との同棲生活の記録のほかはここに書き記す自由を持たない」

「自伝に記された生活後の文子と朴烈」
 文子の自伝はここで終わり、その後の文子と朴との共同の生活と闘いには触れなかった。それに、記せば二人に対する刑罰は重くなるばかりだから、触れることはできなかったのであろう。そこで朴烈の経歴と彼と文子の共同の闘いを最小限記しておこう。
 朴烈は1902年3月12日に朝鮮慶尚北道聞慶郡麻城面の地主の家に生まれたが、朴の家は没落し、1921年には隣の郡である慶尚北道尚州郡化北面で小作人となった。
 彼はまず書堂(寺子屋)で学んだ後に公立普通学校(四年制小学校)で学び、1916年に官立京城高等普通学校師範科に入学した。彼はこの学校に在学中に1919年3月1日に起こった三・一運動に参加して同志と共に独立新聞を発行し、檄文を撒いた。

(また明日へ続きます……)

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