昨日の続きです。
立松が言った通りに検事総長は1925年7月17日に文子と朴烈を刑法73条及び爆発物取締規則違反の容疑で起訴した。東京帝国大学助教授杉田直樹執筆の1926年2月8日付「刑法第七十三条ノ罪●ニ爆発物取締罰則違反事件 被告人金子文子身神状態鑑定書」によれば、文子はこの年の夏または秋に自伝『何が私をこうさせたか』の執筆を始めた(中略)。この自伝によると、立松判事が文子に「過去の経歴について何か書いて見せろ」と命じたので、文子は「命じられるままに、私の生い立ちの記を書いた。それがこの私の手記である」と記している。
立松が文子に生い立ちの記の執筆を命じたことが彼女の自伝執筆のきっかけとなったが、しかし彼女はそれまでの彼女の生き方とその背後にある思想を広く人々に伝えるという積極的な意欲に駆られて執筆したのである。文子はその意思をその手記『何が私をこうさせたか』に次のように書いた。
「この手記が裁判に何らかの参考になったかどうだかを私は知らない。しかし裁判も済んだ今日判事にはもう用のないものでなければならぬ。そこで私は、判事に頼んでこの手記を宅下げしてもらうことにした。私はこれを私の同志(とも)に贈る。一つには私についてもっと深く知ってもらいたいからでもあるし、一つには、同志におしてもし有用だと考えるならこれを本にして出版してほしいと思ったからである。
私として何よりも多く、世の親たちにこれを読んでもらいたい。いや、親たちばかりではない。社会をよくしようとしておられる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、すべての人に読んでもらいたいと思うのである」
つまり『何が私をこうさせたか』は、文子が幼少期から加えられてきた数々の苦難を乗り越えてきた生き方とそれを支えた自己の思想を親たちやその他の多くの人々に伝えようとした遺書であった。
大審院は1926年2月26日に公判を開始し、3月25日に朴烈と文子に死刑判決を下した。
しかしこの3月25日に若槻礼二郎(わかつきれいじろう)首相は、朴烈と文子の
死一等を減ずることを摂政宮、すなわち後の昭和天皇に上奏した(中略)。検事総長小山松吉も司法大臣江木翼(えぎたすく)に3月25日付で恩赦申立書を提出し、江木はその翌26日付で若槻首相に「恩赦ノ儀ニツキ上奏」を提出した(中略)。
4月5日に「恩赦」により朴烈と文子は無期懲役に減刑された。若槻首相は朴烈と文子に対する減刑に関して「聖恩の広大なる事誠に恐懼(きょうく)の至りに堪えません」との談話を発表し、江木法相は減刑を「我が皇室の仁義の広大である事を証するもの」と談話を発表した(中略)。しかし文子はこうした策動により自己を従順な臣民にしようとする天皇制国家の策動に断固として抵抗して、渡された減刑状を破り捨てた。朴烈はいったん恩赦状の受け取りを拒否したが、秋山要市ヶ谷刑務所長の途方にくれた顔を見て「君のために、その恩赦状を預かってやろう」と言って受け取った(中略)。しかし秋山市ヶ谷刑務所長は朴烈と文子は感謝して受け取ったと記者団に発表した(中略)。天皇の聖恩の演出がこのように徹底して行われた。
文子は1926年4月8日に市ヶ谷刑務所から栃木県下都郡栃木町(現栃木市)にある宇都宮刑務所栃木支所に移されたが、宇都宮刑務所栃木支所嘱託医粟田富蔵の検案書によれば、この年の7月23日早朝に独房内で編んでいた麻縄で首をくくって自殺した。
文子は自伝の原稿をその添削についての希望も添えて不逞社の仲間である栗原一男に渡していたので、栗原の手によって文子の死後五周年にあたる1931年7月に『何が私をこうさせたか』が栗原の回想「忘れ得ぬ面影」を添えて春秋社から出版された。
最後に文子の遺体の処置について簡単に述べておこう。彼女の遺体は栃木県下都郡賀郡家中村(現栃木市)合戦場(かっせんば)の刑務所共同墓地に埋葬されたが、裁判で文子と朴烈の弁護に当たった布施辰治弁護士は、文子の同志の栗原一男、古川時雄と共に宇都宮刑務所から文子の死体引取りの許可を得て文子の死体を発掘して火葬場で荼毘(だび)に付し、旧黒友会員たちが遺骨を東京市雑司(ぞうし)が谷(や)の布施辰治宅に運んだ。朴烈の兄朴庭植(パクチョンシク)が文子の遺骨を受け取りに朝鮮慶尚道尚州から来たが、池袋警察署は遺骨を朴庭植に渡さずに満洲の警察署に送ってしまった。
(また明日へ続きます……)
→サイト「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
立松が言った通りに検事総長は1925年7月17日に文子と朴烈を刑法73条及び爆発物取締規則違反の容疑で起訴した。東京帝国大学助教授杉田直樹執筆の1926年2月8日付「刑法第七十三条ノ罪●ニ爆発物取締罰則違反事件 被告人金子文子身神状態鑑定書」によれば、文子はこの年の夏または秋に自伝『何が私をこうさせたか』の執筆を始めた(中略)。この自伝によると、立松判事が文子に「過去の経歴について何か書いて見せろ」と命じたので、文子は「命じられるままに、私の生い立ちの記を書いた。それがこの私の手記である」と記している。
立松が文子に生い立ちの記の執筆を命じたことが彼女の自伝執筆のきっかけとなったが、しかし彼女はそれまでの彼女の生き方とその背後にある思想を広く人々に伝えるという積極的な意欲に駆られて執筆したのである。文子はその意思をその手記『何が私をこうさせたか』に次のように書いた。
「この手記が裁判に何らかの参考になったかどうだかを私は知らない。しかし裁判も済んだ今日判事にはもう用のないものでなければならぬ。そこで私は、判事に頼んでこの手記を宅下げしてもらうことにした。私はこれを私の同志(とも)に贈る。一つには私についてもっと深く知ってもらいたいからでもあるし、一つには、同志におしてもし有用だと考えるならこれを本にして出版してほしいと思ったからである。
私として何よりも多く、世の親たちにこれを読んでもらいたい。いや、親たちばかりではない。社会をよくしようとしておられる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、すべての人に読んでもらいたいと思うのである」
つまり『何が私をこうさせたか』は、文子が幼少期から加えられてきた数々の苦難を乗り越えてきた生き方とそれを支えた自己の思想を親たちやその他の多くの人々に伝えようとした遺書であった。
大審院は1926年2月26日に公判を開始し、3月25日に朴烈と文子に死刑判決を下した。
しかしこの3月25日に若槻礼二郎(わかつきれいじろう)首相は、朴烈と文子の
死一等を減ずることを摂政宮、すなわち後の昭和天皇に上奏した(中略)。検事総長小山松吉も司法大臣江木翼(えぎたすく)に3月25日付で恩赦申立書を提出し、江木はその翌26日付で若槻首相に「恩赦ノ儀ニツキ上奏」を提出した(中略)。
4月5日に「恩赦」により朴烈と文子は無期懲役に減刑された。若槻首相は朴烈と文子に対する減刑に関して「聖恩の広大なる事誠に恐懼(きょうく)の至りに堪えません」との談話を発表し、江木法相は減刑を「我が皇室の仁義の広大である事を証するもの」と談話を発表した(中略)。しかし文子はこうした策動により自己を従順な臣民にしようとする天皇制国家の策動に断固として抵抗して、渡された減刑状を破り捨てた。朴烈はいったん恩赦状の受け取りを拒否したが、秋山要市ヶ谷刑務所長の途方にくれた顔を見て「君のために、その恩赦状を預かってやろう」と言って受け取った(中略)。しかし秋山市ヶ谷刑務所長は朴烈と文子は感謝して受け取ったと記者団に発表した(中略)。天皇の聖恩の演出がこのように徹底して行われた。
文子は1926年4月8日に市ヶ谷刑務所から栃木県下都郡栃木町(現栃木市)にある宇都宮刑務所栃木支所に移されたが、宇都宮刑務所栃木支所嘱託医粟田富蔵の検案書によれば、この年の7月23日早朝に独房内で編んでいた麻縄で首をくくって自殺した。
文子は自伝の原稿をその添削についての希望も添えて不逞社の仲間である栗原一男に渡していたので、栗原の手によって文子の死後五周年にあたる1931年7月に『何が私をこうさせたか』が栗原の回想「忘れ得ぬ面影」を添えて春秋社から出版された。
最後に文子の遺体の処置について簡単に述べておこう。彼女の遺体は栃木県下都郡賀郡家中村(現栃木市)合戦場(かっせんば)の刑務所共同墓地に埋葬されたが、裁判で文子と朴烈の弁護に当たった布施辰治弁護士は、文子の同志の栗原一男、古川時雄と共に宇都宮刑務所から文子の死体引取りの許可を得て文子の死体を発掘して火葬場で荼毘(だび)に付し、旧黒友会員たちが遺骨を東京市雑司(ぞうし)が谷(や)の布施辰治宅に運んだ。朴烈の兄朴庭植(パクチョンシク)が文子の遺骨を受け取りに朝鮮慶尚道尚州から来たが、池袋警察署は遺骨を朴庭植に渡さずに満洲の警察署に送ってしまった。
(また明日へ続きます……)
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