goo blog サービス終了のお知らせ 

大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

連載 NO.33 戦争中は、(1945年8月15日まで)大変だったが・・・戦後も・・・

2020-01-05 | 市民のくらしのなかで

NO.33   前回からの続きです。

金 氏

しかし、一世たちはそれでもひるみませんでした。監視や臨検に来たデカさんたちに酒食の接待をし、貴重品である米を土産に持たせたのです。

酒も米もヤミでした。大胆不敵にもヤミの取締りにたいし、ヤミの酒食や米であがなう、すなわち毒をもって毒を制するやりかたでありました。デカさんたちは接待や土産を期待して「巡回」をするようになり、壊滅させられるはずの朝鮮人業者たちは不死鳥の如く息を吹き返して国民服のふくじなどをあつかって、織物業を死守したのです。

大橋

終戦・朝鮮解放8・15を在日朝鮮人は大変複雑な状況下でむかえ、GHQアメリカの思惑、日本の植民地的考えの延長ために、1910年韓国「併合」前の独立した韓国と言う扱いにならなかったのです。無権利状態が続きました。大国の冷戦政策に再び国ごと利用されていきました。

金 氏

戦後西陣に残った手機、力織機は戦前の三分の一であり全機台の一割も動いていたらよいほうでした。

このような混乱の中、西陣の朝鮮人は、主としてビロードの製造を始め、西陣織物は朝鮮人によって本格的に再開されたのです。しかし絹、人絹糸は戦後になっても、配給制であり、朝鮮人は、除外されていたため、原糸配給権の獲得が切実な問題として提起されました。

1945年、在日朝鮮人連盟の結成、同年朝連京都地方本部が結成されました。続いて1946年朝連京都府西陣支部が結成され、社会部が設置されました。この社会部を母体にして、1947年4月、朝鮮人西陣織物工業協同組合が設立され、一年足らずの間に傘下の業者数は1500名に達しました。

戦後西陣業界で初めて協同組合の下に団結した同胞たちは戦いの末 ついに1948年原糸配給権を獲得したのです。当時米も生糸と同様に統制品で配給制であり、それも遅配がちであったため日本人も非情にひもじい思いをしていました。しかし、西陣織は出来高払いなので、比較的高収入でした。そしてまた、西陣織の朝鮮人業者は従業員たちにもひもじい思いをさせませんでした。彼らは、キムチ、ホルモン焼き、モツ鍋などの給食を無償で従業員にだし、職工は働き場所を競って朝鮮人業者に求めたのです。

また、地域の周囲には父や夫が戦地からいまだ復員できず、飢えに苦しむ多くの日本人るす家族の姿がありました。それは朝鮮人にとって他人事として映らなかったのです。そのつらさは、つらい目にあった者が最もよく知るものでした。飢えに苦しむ留守家族に多くの朝鮮人は惜しみなく米を与えました。もちろんヤミ米でした。朝鮮人は民族や国境の壁を越えて、日本人との相互扶助、共生をはかったのです。これは西陣の朝鮮人の誇るべき歴史なのです。

大橋

だから私は朝鮮人の方がすきなのです。苦しくなったときにどういう態度、振る舞いをするかが、その人間の値打ちをきめるのですね。

最近、京大の小倉紀蔵先生の「韓国は一個の哲学である」と言う本を読んで、普通に人助けをされる韓国・朝鮮人の考えを少し理解できたような気がしています。横のつながり、苦しい人を見捨てられない方が多いのですね、

戦後の苦しい中でその後の発展を築かれた奮闘の経緯を教えてほしいですね。

金 氏

朝鮮人組合は、原糸配給権を獲得しましたが、それですべてが解決したのではありませんでした。1947年、上京税務署は朝鮮人組合を通して、200万円の課税を要求し、翌48年には2000万円、49年には、1億200万円と課税額は急上昇したのです。このような税金攻勢にたいし1947年、織物組合内に朝鮮人上京税金組合を設立し、対応していきました。

税務当局の課税要求にたいし、義務を果たすのであれば、権利を認めたうえでなければならないのに、諸権利を認めずに義務を要求してくるのは不当な差別政策であると強く主張し、税務当局の要求をことごとく撤回させたのです。後に1949年朝鮮人上京生活協会と発展し、今日の商工会の母体となっていったのです。1963年在日本朝鮮京都府西陣商工会を結成したのです。

大 橋

当時は日本人も重税攻勢で税務当局と命をかけた闘いが繰り広げられました。税金が払えず自殺した仲間の棺を担いで重税反対デモが行われました。苦しめられていた相手がおなじだったのです。

子どもたちへの民族教育は、親の責任です。全国的にも日本当局の攻撃をはねのけて発展させられたわけですが、西陣の場合はどうでしたか?

金 氏

京都における民族教育の発祥の地=西陣と言うことができます。1948年4月、阪神教育闘争を皮切りに全国の朝鮮人学校が弾圧閉鎖され、これに抵抗した多くの在日同胞が検挙、弾圧された中で織物組合の幹部たちは、時のGHQ、軍政長官を説得し、他府県のような検挙、弾圧を受けることなく、1948年7月に朝鮮西陣中央小学校を建て開校したのです。

大橋

「米・ソ冷戦体制」の下で、朝鮮は民族の分断、米・中の代理戦争で世界戦争に続き国土は二度も焼き尽くされました。しかし日本はまたも朝鮮を利用して経済の再建を行うと言うことをしました。西陣はどのような影響を受けたのでしょうか? 

金 氏

1950年に勃発した朝鮮戦争は、日本に「特需」ブームを起こし、日本の工業生産は一挙に戦前の水準にまではねあがりましたね。隣国の民族間の不幸な戦争、代理戦争の様相でしたが・・・によって復興したのです。これはちょっと複雑な気持ちです。

これで西陣業界にも大きな変化をもたらしました。婦人層の呉服、和装品の需要が急激に復活し始めたので、それまでの主力製品であったビロードに代わって着尺織物(着物地)が求められるようになりました。

ビロードが着尺に転換するには設備を木製の手機に代えて、鉄製の力織機に更新しなければならないのですが、それにいち早く対応したのは、数十名の有力な朝鮮人でした。当時は、殆どの西陣織工場は数台の織機を設置した家内工業的、旧態依然としたものでしたが、朝鮮人は、フロアーに数十台を設置して、寄宿舎などの設備をも備えた、工場としての形態を整えました。そして着尺織物の復活は、西陣業界の復興と発展をもたらし、朝鮮人業者も飛躍的に隆盛しました。西陣で産出される着尺織物の三分の一を朝鮮人が生産したのです。

しかしこのような需要品の変転に対応して隆盛の波に乗ることができた朝鮮人は、数十名の有力な業者だけで、大多数の朝鮮人は、大きな障壁に直面しなければなりませんでした。呉服、和装品の製造販売の難しさは、多品種少量生産でなければならないので、それには力織機を少なくとも20台以上備えねばなりません。当時、力織機一台が約20万円だったので20台では400万円、またそれを設置する工場の土地、建物、運転資金を合わせると、数千万の資金を要しました。それを自己調達できなければ、金融機関からの融資が必要ですが、それが可能なのは 数十名の有力な業者だけで大多数は民族的差別のために阻害されました。日本政府当局は否定していますが、当時の朝鮮人に対する融資について「第三国人に対する融資禁止令」を下していたと言われています。

このような状況の中、民族独自の金融機関の必要を痛感していた朝鮮人組合は、1948年、金融機関の設立を議決し、京都府下全域の商工人のみならず日本全土の同胞社会に呼びかけたのです。その反響はたちどころに大きく広がり、東京の商工人たちは1949年から準備に取り組み、次いで大阪、愛知、神奈川、兵庫などの各地でも取り組みはじめたのです。まさに民族独自の金融機関は京都西陣の朝鮮人が初案し、各地の同胞社会に呼びかけたものです。

その後、幾多の紆余曲折を経て、1953年11月商工信用組合(現京滋信用組合)が朝鮮人織物組合内において本店が誕生し、また京都実業信用組合(現近畿産業信用組合)は、1954年に誕生したのです。

以上のように、西陣の在日一世達の生き様は差別と過酷な抑圧、弾圧の中、同胞地域社会を守り築いてきた歴史であり、権利は与えられるものではなく、闘い取るものであり、自らの手で勝ち取るものだということを実践した歴史でもあります。

大橋

今私たちが目指している、日朝友好運動の発展で築こうという「共生社会」、助け合って生きるお手本が西陣にある。これが、私たちの運動の「先駆者」の姿です。

ジョンヒョンさんのお話しはよくわかります.そうして平和な社会の実現こそが これからの目指す道ですね、

 金さんが特に若い方々にこれだけは言っておきたいということがありますか?

金 氏

一世たちが設立した織物組合は在日同胞社会で初めて作られた商工団体であり、現在の商工会、納税組合、商工会議所の源流となったのです。さらに織物組合は在日同胞社会で初めて民族金融機関の設立を発案し、実現しまた、日本全国の在日社会に呼びかけたのです。まさに今なお続いている在日同胞の権益擁護運動の先駆者であったともいえるでしょう。

西陣織と言う京都の伝統産業に参入したのみならず、戦後の混乱期に平和産業としての西陣織物をいち早く再開させたのは日本人ではなく、西陣の在日朝鮮人であったのです。しかも在日一世たちは民族と国境の壁を越えて、困っている日本人に米を分かち合い、相互扶助、共生の歴史、地域社会共同体を築いてきたのです。私たちは、在日一世たちの苦難にみちた歴史と共に、彼らが築いてきた先駆者としての伝統をしっかり受け継ぎ、民族の魂と共生の絆で結ばれた新しい同胞社会の構築のためにがんばっていきましょう。特に日朝協会の方々としっかり力を合わせましょうと呼びかけたいです。

大橋

今日は本当にありがとうございました。私も、日朝国交正常化を実現させることが、日本人自身の心・考えかたを変え、「日米安保条約」のない日本へと進めなければならないと思うのです。朝鮮南北統一が、アジアをかえ、世界平和を実現させる一番近道だと思っています。

そのために ジョンヒョンさん握手

          


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「安倍政権を倒し、政権を代... | トップ | 通信設備から始まったHUAWEI... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

市民のくらしのなかで」カテゴリの最新記事