どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

8月21日 #3

2005年08月21日 | 日記
25年近くの年月を経て

再び「パパラギ」を手にした

今の自分がどう考えるか それが愉しみだ
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8月21日 #2

2005年08月21日 | 日記
腕が日に焼けて真っ黒になった

徘徊と先日のお墓参りのせいである

足と較べると…こちらの白さが不気味なほどだ

オーストラリアでは紫外線注意報が出されるし 予防クリームを塗るのは常識らしい

私は 雨の日に傘を持つのさえ面倒くさいなぁ~と思うほうだから 日傘なんて持たないし

それなら長袖を着て歩いた方がマシと思うけれど それもしないから 仕方が無い

で 話はお墓参りなのだが…

子供の頃 お墓参りが大好きだった

そこに眠る人は この世で会った事が無く お話の中だけに存在する人達だから 無邪気な想像を愉しんだ

よそ様の墓誌拝見も興味深い

背の高い雑草に埋もれて どこに墓石があるのか判らなくなっているお墓もある

そもそも墓石があるのかさえ…

お墓も墓参りも生きている人の為に存在すると思っている

過去に生きた人と自分との繋がり そして 今生きている人達との繋がり

どんな感情があろうとも その確認作業だと思う

それが途絶えたら それはそれで良い

お墓の用は済んだも同然

かつて 墓守の後継者を自分が持たない事に対して 後ろめたさの様なものを感じたが

今は それも良いでしょと 眠る人々を強引に説得している

あの世で会ったら 気にしてないよと笑ってね

それが無理でも どうか石を投げないでね

私が生きている間は せいぜい綺麗にしておくから
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8月21日

2005年08月21日 | 日記
戦争中に犯した罪からどう救われるのか、と考えると、神のような超越したものを思うしかありません。

宗 左近さんのこの言葉を夕刊で読んだ

いつも正しいことをして生きていきたいけれど 残念ながら難しい

そもそも 正しいという判断そのものが難しい

正しいことをするのも 正しいことができないのも 運に左右される場合もある

正しいと思うことをするべきだが 自分は常に正しい という顔をして生きていきたくはない

懺悔や罪の意識が 人に対する思いやりの心を生むのではないか

正しく生きるとは 正しいことをして生きる ということとは違うように思うが 結論は保留!
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