梶井基次郎は、掌編『桜の樹の下には』で、衝撃的な書き出しで散文詩とも言える短編を書き始めた。読むものすべてに驚きを与える書き出しは
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じら
れないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しか
しいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていい
ことだ。
『桜の樹の下には』が書かれたのは、昭和3年である。その前年、梶井基次郎は伊豆湯ヶ島に湯治をかねて滞在していた。その頃は湯ヶ島には温泉宿が4、5軒あるのみであった。梶井は結核を患い、第3期であった。梶井は寡黙で、自分のこと、まして病気のことなど誰にも語らなかった。同じ温泉に、川端康成と宇野千代も滞在しており、梶井は二人の宿に足しげく訪れ、夜半遅くまで語りこんだ。しかし、湯治の効果は上がらず、宇野千代との間を夫である尾崎士郎に疑われ、湯ヶ島を去った。
昭和3年には、梶井は文筆活動を精力的に行うが、病状は更に悪化、身体の疲労も激しく血痰を毎日吐く状態であった。梶井はこのときすでに不治の病であることを認識し、死が近づいていることを受け入れていたのではないか。川端康成は「末期の目」について、死に向かう人間が見る自然はより美しく見える、それは人が死んだ後も美しいからと語っている。梶井はこの年、27歳、すでに末期の目を自然の注いでいたように思われる。それから4年、病を抱えながら、多くの作品を書き上げ、4年後31歳の若さで世を去った。
湯ヶ島に梶井基次郎の文学碑が旅館の敷地に立っている。碑には、湯ヶ島の旅館で書いた手紙の一節が刻まれている。梶井は、湯ヶ島の自然の美しさを、目に焼き付けようと凝視している。
山の便りをお知らせします。桜は八重がまだ咲き残ってゐます。つゝじが火がついたやうに
咲いてきました。石楠木は浄簾の瀧の方で満開の一株を見ましたが、大抵はまだ蕾の紅もさ
してゐない位です。げんげん畑は掘りかへされて苗代田になりました。もう燕が来てその上
を飛んでゐます。 伊豆湯ヶ島世古ノ瀧 湯川屋内 梶井基次郎