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今朝は畑に出かけて施肥とニラの収穫。片隅に名の知れぬ野の花が、朝露にぬれて咲いていた。こんな花を見ていると、瀬戸内寂聴の自然を見る目が妙に気になってくる。宗教、あるいは仏教には縁遠い生活であるが、寂聴の視線には不思議な親近感を感じる。
「寂庵の庭に立っていると、鬱蒼と茂って森のように見えてきた木々や草の吐く息が、見えない渦になって私を取りまいている。つい一カ月前までは、すき透るような新緑が痛々しいほど柔らかで梢の上で震えていて空の木々のあわいからレース編のすかし模様のように光っていたのに、今は重なりあう梢の葉が猛々しく茂り、一枚一枚の葉のすべてが自信ありげに全身をひろげ、コブラン織りのような厚みをもつ重いとばりになっている」(瀬戸内寂聴『嵯峨野日記』)
庭の木々や草花、野の花に生命を見ている。その一木一草が、息を吐き、その全体を包みこんでいる。私は山の自然に抱かれながら、こんな体験を持ったのことが一度ならずある。