常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

逝くものは

2022年08月24日 | 日記
最近、暑いせいで昼間に水分を摂ることが多い。いきおい、夜、小用に起きることが多い。その時、枕元に置く本が、井上靖の『孔子』である。以前、図書館から借りて読んだ気もするが、孔子の死後、その墓の側に暮らし、墓を守りながら訪れる人に、晩年の漂流生活を回顧する話である。エンキョウ、ひねショウガというあだ名で呼ばれる語り手は、漂泊の時代、孔子とその高弟たちと行を共にし、食事や所要の便宜を図った付き人のような存在だ。枕頭の書としては、1ページも読み終わらないうちに、眠りに落ちたり、少し興がわけば、1時間も読みふける便利な存在である。

第2章にリフレインのように出てくる孔子の言葉。「逝くものは斯くの如きか昼夜を舎かず。」中原の国々を漂流するうちに、さる川の辺に立って、ふとつぶやいた孔子の言葉である。小間使いのような仕事をしながら、偉人の言動や弟子たちの言葉に次第惹かれていくエンキョウ。その心に深く刻み込まれた言葉である。
「川の流れが大海を目指すように、人間の、人類の流れも亦、大海を理想とする大きい社会の実現を目指すに違いありません。」

詩吟の教室で、練習に明け暮れているのは、頼山陽の「述懐」である。

十有三春秋 逝く者は已に水の如し
天地始終無く人生生死有り
安ぞ古人に類して千載青史に列するを得ん

孔子の「逝くものは」を詩文に入れた山陽の詩は、人間の時間を川の流れに例え、歴史に名を残すには、死のある人の時間は有効に使うべきことを詠んでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする