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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

八ヶ岳

2021年07月23日 | 登山
7月20日から2泊3日の日程で、南八ヶ岳の赤岳、横岳を中心にするグループ登山に行ってきた。2日目の山小屋は赤岳天望荘。早朝5時、5℃くらいの肌寒い気温のもと東の雲間から日の出を見た。御来光。高山で望む日の出は、荘厳な景観で人々の崇敬の対象でもあった。夏でもこのくらいの、冷たい空気だ。日の出とともに、日光に照らされると、暖かい陽ざしが、山の周辺に行き渡り、この山の自然や動植物の生存のもとであった。思えば八ヶ岳の山麓には南牧村、茅野、原村、富士見町などの広い高原がある。ダケカンバ、シラカバ、ツガ、モミ、カラマツ、ヤマザクラなど森が広がっている。ここは、縄文時代から人が住みつき狩猟採集で暮らしを立てて来た。人類の祖先が、この自然とともにあった。山を降りて、この高原の辺りを通ると、鹿の群れが、森のなかで遊んでいた。縄文時代であっても、この八ヶ岳も北八つも、今と同じような姿を見せていたのであろうか。麓に広がる針葉樹の森には、別荘やペンションが姿を残している。

標高1070mの豊平には、尖石遺跡がある。およそ5000年前、20戸にも満たない集落を作って、人々は安住の地としていた。高原の澄んだ空気が、暑い夏は爽やかであったろう。森に繁る木々は、煮炊きをする燃料になり、冬の暖をとる燃料、小枝は狩猟の道具を作る材料にもなった。石で作った斧は、鳥獣を獲ったり解体する道具にもなる。森には多くの鳥獣、谷川には魚も多く泳いでいた。そして、この辺りに栗の木が茂り、秋にはたくさんの実をつける。道具や火をつかう人間は、次第に増え、やがて農耕を始めていくことになる。狩猟生活に比べると、農耕はやっかいだ。人の自由な時間が奪われ、集落の同志の争いが始まる。人の群れを束ね、集団を大きくして、国が出現するまで実に長い時間が流れている。
日の出をみてから、山小屋の朝食になる。昨夜はメインにステーキがついたが、朝は柔らかい焼き鮭とみそ汁。高い山で炊くご飯だが、実に美味しい日本の朝飯だ。思わずお代わりをしてお腹を満たした。樹林帯を抜けて目に飛び込んでくるのは硫黄岳とその裾に巨大な口をあける爆裂火口だ。暗い沢が一転してむき出しの砂利道になる。ケルンが置かれて、濃霧などで道を見失わないようにいく手を示している。紅い砂利の斜面にコマクサの群落が現れる。硫黄鉱泉で小休止して、横岳の急登まで、コマクサの可憐な花が疲れた脚を癒してくれる。記憶の中には、歩きやすい八ヶ岳の山道とその脇に咲く高山の花々ばかりだが、現実に歩いて見ると、横岳の鎖や所々にかかるハシゴを登り下りに時間を取られ、花をゆっくりと見る余裕がなくなっている。

雲一つない青い空と、昨夜泊まった赤岳鉱泉を扇のかなめにして、八が岳の峰の稜線を歩いていく。横岳の頂上で、ザイルでガイドさんと繋がって歩くお婆さんの姿があった。急登を歩き抜けてきたために、少し足がふらついて見えたが、目には達成感の喜びがあふれていた。「この下にコマクサの群落がありますよ」と言うと、にっこりと笑って頷いた。
この山行は天候に恵まれた。夕立はくるのだが、いずれも小屋に入ったり、車に乗車してからだ。梅雨明けの猛暑のなか、青空の向こうに富士山が姿を現し、北アルプスの残雪の峰がくっきりと見えている。夏休みのひと時、学生の登山部や家族連れ、若い山登りグループに、高齢になった人々。実に多くの人が、この山に魅せられて登って来る。一体、これまでにここに登った人は、どれほどの数になるのであろうか。山道は整備されているが、ここで命を落とした人も多い。

昭和6年12月、この稜線でビバークして、友を亡くし、自らも凍傷で両足指の切断という事故にあった登山家芳野満彦の手記がある。赤岳の頂上の石室で夜を過し、吹雪の中吹雪の中をラッセルして権現岳向かうも道を失い、赤岳の石室にひき返す。「がんばれ、あと1時間で赤岳に着く」しかし、友の答えは「もう一歩も歩けぬ」クレパスに落ちた友は「足が痛い。身体中寒くてたまらぬ」こう言いながら死んで行った。深田久弥も友を、硫黄岳北側の岸壁の滑落で友を亡くした、と『日本百名山』に書いている。そんな出来事など、すっぱりと消え去り、赤岳山頂から360℃のパロラマが開けていた。本日の参加者8名(内男性8名)。最後に計画した阿弥陀岳をパスして帰路につく。下山2時。更科温泉で3日ぶりの汗を流し、遠い山形への帰路の着く。着夜11時15分。

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落葉松

2021年07月19日 | 日記
梅雨が明けた途端に、猛暑がやってきた。わが家は風が吹き抜けていく構造になっていて、滅多にエアコンも使わないが、昨日は我慢できずにエアコンの冷風にあたった。今日も同じような気温になるらしい。何れにしても35℃を超えると、冷水と氷菓が欠かせない。近頃は昔はやったアイスバーがリバイバルしたのかたくさんの種類が出ている。かっては、東京の上流家庭では、夏の暑さを避けて信州、軽井沢で夏を過ごした。北原白秋に「落葉松」という詩があるが、高校生のころこの詩を読んで、一番好きな詩になった。大正10年の夏、白秋は軽井沢へ講演に出かけ、泊まった星野温泉でこの詩を詠んだ。温泉から浅間山の噴火が見え、八ヶ岳がその偉容を見せていた。

 落葉松 北原白秋
からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き、
からまつはさびしかりけり、
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

明日、早朝、長野佐久から、八ヶ岳に入る。美濃戸までレンタカーで行き柳川沢を赤岳鉱泉まで。2泊3日の山旅だ。かって人がしたように、下界の暑さをさけて、2800mの高山で、涼風と花々、星空を見る旅だ。落葉松の詩が好きにになったのは、生家の家を囲むように5本ほどの落葉松があったからである。子どものころ、木登りを格好の遊び場であった。
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ワタスゲの湿原

2021年07月18日 | 登山
高原の湿原で風にゆれるワタスゲの群落。標高の高い池塘などのある湿地に生育するのでこの花や花のあとの綿毛をなかなか目にすることはできない。ここ弥平平の大湿原までは、白布温泉の天元台ゴンドラからリフト3基を乗り継ぎで1時間。そこから山道を登り下って2時間でやっと到着できる。この景色を見るために、それほどの時間がかかるが、ここに立つとその労苦は魔法のように消えていく。

このような景色を楽しみながら、足の筋肉を鍛える。自分のような高齢者にとって一石二鳥の効果がある。目にする自然は、生命をはぐくむ植物と高原の姿が心を豊かにしてくれる。もう一つは自分の脚の力が、高度と歩行距離を稼ぐことで筋肉を強くしてくれる。これは自分の心臓や肺の負担を軽減してくれる。そのため、景観を楽しむばかりでなく、歩くことそのもが楽しくなる。ウオーキングハイいう心楽しい状態を自然のなかで実現できる。

山岳写真家川口邦雄の言葉。
「ゆっくりゆっくりと登ってゆく。空に近くなることがひたすらうれしい。わたしは何を考えているのだろう、いや何も考えていなかったようだ。ただ何となく、山を眺めていた。なぜかわからないが、春のやまではいつもこうなのだ。」

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梅雨明け前日の夕焼け

2021年07月16日 | 日記
梅雨明け目前の夕焼けは、こよなく美しい。暑すぎる夏の始まりだが、山登りをするものには、「梅雨明け10日」といってこころよく夏山を楽しめる。明日、東大巓、その後八ヶ岳が、梅雨明けの晴天にすっぽりと包まれる。去年から楽しみにした夏山の始まりだ。あたかも三ヶ島葭子が明日の逢瀬の前の日に見た夕焼けの心境のようだ。

君を見ん明日の心に先立ちぬ夕雲赤き夏のよろこび 葭子

この歌は大正2年に読まれた。三ヶ島は与謝野晶子から歌の指導を受け、瑞々しい感性で女ごころを詠んだ。そのころ、彼女の書いた一文に「時代におもねる先に己を尊重し、己を尊重する前に、己を知りたい」と心中を吐露したものがある。女性の自立はすでにこの時代から始まっていた。

夏の夕暮れのひとときは、詩人の心もゆさぶる。詩人立原道造が親友にあてた手紙が残されている。その文章は、そのまま詩になっている。

「一日の仕事のあとの水色の空、そして夕焼けが美しいレース編みで西の空を飾ること。もう、とほい思ひ出はいらなくなった。夢がひとりでやって来て、そのたそがれをやさしくする。またあこがれと望みにみちたたそがれを。そしてひとつのあかりの下で、くらい風のにほひが、ひろげた本を親しいものにする」

立原は昭和13年に東大工学部を卒業後、東京の設計事務所に勤め、遠く離れた親友にこんな手紙を書き送った。三ヶ島にしろ、立原にしろ、日本の近代の黎明期の心の瑞々しさにあふれている。今日、こんな時代から過去の詩の心をふり返ることは意味のあることだ。
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一切経山

2021年07月15日 | 登山
梅雨末期の山の天気は皮肉だ。この日の天くらは、1週間ほど前から登山指数C、ゲリラ豪雨と雷が全国各地で発生、到底登山できる気候ではないものと諦めていた。ところが2日ほど前から天くらの指数は劇的に改善、BからAとなった。満を持して夏の吾妻へ、一行の期待は膨らむばかりだ。明けて当日の朝、山形の空には雲が残る。天気は好転するものと信じて、東北中央道を福島へと進める。栗子トンネルの辺りでは深い霧。福島市に出ても霧雨さへ降っている。福島から磐梯スカイラインへ、登山口の浄土平駐車場でも、深い霧。しかし、この霧を尻目に登山姿の若者姿が見えている。

一切経山が吾妻火山群の一つとして知られている。志賀重昂の『日本風景論』には吾妻山の明治26年の噴煙の図版が載せられ、その研究のため現地に入った理学士三浦宗次郎が噴火のなか落命したことを記している。そのなかで、吾妻火山の記載がある。「岩代国福島町の西5里、温湯温泉の西一里半にして吾妻富士(一名小富士海抜1734m)突起す。吾妻富士の東に東吾妻山(海抜1888m)あり。吾妻富士と東吾妻山の間、北に硫黄山(海抜1648m)あり。硫黄山の正北に吾妻山(海抜1860m)あり。吾妻山の北に一切経山(海抜1919m)あり。これら諸山の間より近年来時々爆裂す。」

志賀の書く通り、浄土平駐車場には一切経山の登山口があり、その向いに吾妻小富士への登山口もあり、登山道の工事のため現在はこちらへ登ることはできない。一切経山への登山口から、すぐに木道になる。霧のなかの湿原のなかを進むとほどなく丸太で作られた階段状の登山道になる。酢ヶ平の分岐まで、灌木の林のなかである。時折り現れるのは、咲き終わろうとしている石楠花だ。
ここは標高1600~1700m、この時期に夏の花が咲き競う。展望のきかない霧の中、頼みは高山の花に出会う楽しさだ。

石楠花に手を触れしめず霧通ふ 臼田亜浪

酢ヶ平避難小屋を過ぎると、ザレ場になる。小石の道をカラフルな傘をさした女性が降りてきた。頂上も霧で展望はないとの話だ。登山道の脇に丸葉シモツケ草のピンクや白の花が急に増えてきた。シャクナゲも雨に濡れて見ごたえがある。時折り見つけるウスユキソウが可憐である。今日は展望もないものとして、頂上を目指す。やがて森林限界を過ぎる。ハイマツの赤い花が珍しい。頂上への道には、ロープを張って道を分かりやすくしてある。頂上の着くと、さっと日がさす。見えないはずの五色沼の端が、霧が切れたあたりに姿を現す。仲間から、歓声が上がる。「岩手山の再来!」岩に座をとって昼食とする。食べている内に、霧が晴れることを期待した。しかし、晴れるはず霧が再び、五色沼を覆いつくす。本日の参加者8名(内男性4名)。筋トレの効果か、岩手山での苦行の成果か、登りも下りも歩きは順調だ。

帰路は酢ヶ平から鎌池の周囲を回った。登山道をふさぐように咲くコバイケイソウの群落。これほどこの花を近くにたくさん、まるで花をかき分けるように歩いたのは初めてである。コバイケイソウの花は毎年咲くわけではない。今年は当り年であるらしい。鎌池は近くに来ると想像以上に大きな沼だ。尾瀬沼ではこの花は6月中、下旬だだが標高の高いここではひと月ほど遅い。それにしても、頂上から得られるはずの磐梯、安達太良山、西吾妻の峰々など眺望の代償でもあるように、これでもか、これでもかと咲き広がっている。池の周りの道はほぼ木道。木道を離れると沢筋につけられた登山道を浄土平の駐車場をめざして下山する。12時頂上で昼食後、1時間半で駐車場に着く。
コメント (2)
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