7月20日から2泊3日の日程で、南八ヶ岳の赤岳、横岳を中心にするグループ登山に行ってきた。2日目の山小屋は赤岳天望荘。早朝5時、5℃くらいの肌寒い気温のもと東の雲間から日の出を見た。御来光。高山で望む日の出は、荘厳な景観で人々の崇敬の対象でもあった。夏でもこのくらいの、冷たい空気だ。日の出とともに、日光に照らされると、暖かい陽ざしが、山の周辺に行き渡り、この山の自然や動植物の生存のもとであった。思えば八ヶ岳の山麓には南牧村、茅野、原村、富士見町などの広い高原がある。ダケカンバ、シラカバ、ツガ、モミ、カラマツ、ヤマザクラなど森が広がっている。ここは、縄文時代から人が住みつき狩猟採集で暮らしを立てて来た。人類の祖先が、この自然とともにあった。山を降りて、この高原の辺りを通ると、鹿の群れが、森のなかで遊んでいた。縄文時代であっても、この八ヶ岳も北八つも、今と同じような姿を見せていたのであろうか。麓に広がる針葉樹の森には、別荘やペンションが姿を残している。
標高1070mの豊平には、尖石遺跡がある。およそ5000年前、20戸にも満たない集落を作って、人々は安住の地としていた。高原の澄んだ空気が、暑い夏は爽やかであったろう。森に繁る木々は、煮炊きをする燃料になり、冬の暖をとる燃料、小枝は狩猟の道具を作る材料にもなった。石で作った斧は、鳥獣を獲ったり解体する道具にもなる。森には多くの鳥獣、谷川には魚も多く泳いでいた。そして、この辺りに栗の木が茂り、秋にはたくさんの実をつける。道具や火をつかう人間は、次第に増え、やがて農耕を始めていくことになる。狩猟生活に比べると、農耕はやっかいだ。人の自由な時間が奪われ、集落の同志の争いが始まる。人の群れを束ね、集団を大きくして、国が出現するまで実に長い時間が流れている。
日の出をみてから、山小屋の朝食になる。昨夜はメインにステーキがついたが、朝は柔らかい焼き鮭とみそ汁。高い山で炊くご飯だが、実に美味しい日本の朝飯だ。思わずお代わりをしてお腹を満たした。樹林帯を抜けて目に飛び込んでくるのは硫黄岳とその裾に巨大な口をあける爆裂火口だ。暗い沢が一転してむき出しの砂利道になる。ケルンが置かれて、濃霧などで道を見失わないようにいく手を示している。紅い砂利の斜面にコマクサの群落が現れる。硫黄鉱泉で小休止して、横岳の急登まで、コマクサの可憐な花が疲れた脚を癒してくれる。記憶の中には、歩きやすい八ヶ岳の山道とその脇に咲く高山の花々ばかりだが、現実に歩いて見ると、横岳の鎖や所々にかかるハシゴを登り下りに時間を取られ、花をゆっくりと見る余裕がなくなっている。
雲一つない青い空と、昨夜泊まった赤岳鉱泉を扇のかなめにして、八が岳の峰の稜線を歩いていく。横岳の頂上で、ザイルでガイドさんと繋がって歩くお婆さんの姿があった。急登を歩き抜けてきたために、少し足がふらついて見えたが、目には達成感の喜びがあふれていた。「この下にコマクサの群落がありますよ」と言うと、にっこりと笑って頷いた。
この山行は天候に恵まれた。夕立はくるのだが、いずれも小屋に入ったり、車に乗車してからだ。梅雨明けの猛暑のなか、青空の向こうに富士山が姿を現し、北アルプスの残雪の峰がくっきりと見えている。夏休みのひと時、学生の登山部や家族連れ、若い山登りグループに、高齢になった人々。実に多くの人が、この山に魅せられて登って来る。一体、これまでにここに登った人は、どれほどの数になるのであろうか。山道は整備されているが、ここで命を落とした人も多い。
昭和6年12月、この稜線でビバークして、友を亡くし、自らも凍傷で両足指の切断という事故にあった登山家芳野満彦の手記がある。赤岳の頂上の石室で夜を過し、吹雪の中吹雪の中をラッセルして権現岳向かうも道を失い、赤岳の石室にひき返す。「がんばれ、あと1時間で赤岳に着く」しかし、友の答えは「もう一歩も歩けぬ」クレパスに落ちた友は「足が痛い。身体中寒くてたまらぬ」こう言いながら死んで行った。深田久弥も友を、硫黄岳北側の岸壁の滑落で友を亡くした、と『日本百名山』に書いている。そんな出来事など、すっぱりと消え去り、赤岳山頂から360℃のパロラマが開けていた。本日の参加者8名(内男性8名)。最後に計画した阿弥陀岳をパスして帰路につく。下山2時。更科温泉で3日ぶりの汗を流し、遠い山形への帰路の着く。着夜11時15分。