大辞林 第三版の解説
でんとう【伝統】
ある集団・社会において,歴史的に形成・蓄積され,世代をこえて受け継がれた精神的・文化的遺産や慣習。 「民族の-」 「 -を守る」
伝統という言葉は私の脳裏にずっと残っている。最初は確か、中学生位のことだっただろうか、人生や社会について少しずつ考えるようになってきた。そんなとき伝統という言葉が何か引っかかってきたことを思い出す。そして、高校生の頃だった。先生が「我が校は長い伝統を持ち…。」とか、やたら伝統を出し、何か窮屈だなという印象を受けた。そして、それは結果的に私たちを縛っているような感覚を受けたのである。
それは、現在恩恵を受けている人たちの為の伝統、そんな響きを感じ始めていたのだろう。いわゆる保守的という言葉と似ているなと感じ始めていた。伝統を守れば安心して生きてゆくことができる。だけど、御上には楯突いちゃいけないんだよ。と、いっているような感じだった。そうすれば、安心安全な生活が保障されるんだよ。と、そんな感じがした。
それは、現在恩恵を受けている人たちの為の伝統、そんな響きを感じ始めていたのだろう。いわゆる保守的という言葉と似ているなと感じ始めていた。伝統を守れば安心して生きてゆくことができる。だけど、御上には楯突いちゃいけないんだよ。と、いっているような感じだった。そうすれば、安心安全な生活が保障されるんだよ。と、そんな感じがした。
母にも、お堅い「中電でも就職すれば。」
と、いわれたことも似ていると思う。親は平凡な道、安全な道を望むのだろう。でも、当時の私は母のいうことは聞かなかった。
それ以後、自分の道はすべて自分で決めたきたつもりである。幸い、次男であるというのもあったかもしれない。今、思えば、自分の人生だ。自分の思うように生きてきてよかったと思う。こうさせて、もらえたこともありがたいと思う。なき両親にも、感謝感謝だ。
さて、長い間生きてきて、安心安全は守るだけではだめなのである。安心安全は結局は自分で築いてゆくものなのだ。伝統伝統といっていると守るが主になりどうしても、創造するという意識はなくなってくる。世の中は人に頼っているのでなく、自分で、デザインしクリエイトしていくのである。ですから、デザイナーでありクリエーターでもある。だから、人生は芸術である。とも、いえる。人生を芸術化させるのである。
伝統も不易流行の言葉と同じで、よき物は残し、時代に合わないものは潔く変えていかなくてはならない。そのシステムがうまく機能している社会や会社は後世ににも残っていけるのである。伝統にあぐらをかくようになったら、もう、終わりである。いわゆる守旧派である。既得権益にしがみつくようになってしまう。
しかし、やがて、その権益もうたかたのように諸行無常の流れの中に飲み込まれてしまうのである。細胞が瞬時に新しく生まれ変わっているように、息をしている人間には伝統だけではだめなのである。変化の激しい世の中にあっては不易流行の考えは必須であり、そうでなくとも、時の流れとともに変化してゆくものなのである。
伝統は過去のものでなく、過去の良さを残しつつ、自分たちで絶えず作り出してゆくものなのである。その結果としての軌跡が伝統という言葉を醸成しているといえる。過去から未来永劫のスパンの中の過程が伝統を作り出しているのである。
伝統は時代時代を生き抜いた人たちの歴史であり、絶えず変化してきた足跡でもある。歩き、振り向いたとき、できているのが伝統であり、歩みはいつも未来を見つめるものである。足跡は歩いた後にだけできる。伝統に縛られるものではない。
さて、長い間生きてきて、安心安全は守るだけではだめなのである。安心安全は結局は自分で築いてゆくものなのだ。伝統伝統といっていると守るが主になりどうしても、創造するという意識はなくなってくる。世の中は人に頼っているのでなく、自分で、デザインしクリエイトしていくのである。ですから、デザイナーでありクリエーターでもある。だから、人生は芸術である。とも、いえる。人生を芸術化させるのである。
伝統も不易流行の言葉と同じで、よき物は残し、時代に合わないものは潔く変えていかなくてはならない。そのシステムがうまく機能している社会や会社は後世ににも残っていけるのである。伝統にあぐらをかくようになったら、もう、終わりである。いわゆる守旧派である。既得権益にしがみつくようになってしまう。
しかし、やがて、その権益もうたかたのように諸行無常の流れの中に飲み込まれてしまうのである。細胞が瞬時に新しく生まれ変わっているように、息をしている人間には伝統だけではだめなのである。変化の激しい世の中にあっては不易流行の考えは必須であり、そうでなくとも、時の流れとともに変化してゆくものなのである。
伝統は過去のものでなく、過去の良さを残しつつ、自分たちで絶えず作り出してゆくものなのである。その結果としての軌跡が伝統という言葉を醸成しているといえる。過去から未来永劫のスパンの中の過程が伝統を作り出しているのである。
伝統は時代時代を生き抜いた人たちの歴史であり、絶えず変化してきた足跡でもある。歩き、振り向いたとき、できているのが伝統であり、歩みはいつも未来を見つめるものである。足跡は歩いた後にだけできる。伝統に縛られるものではない。
戦後、私たちは、生まれながらにして新憲法の下で、生活をしてきた。生まれて、しばらくは、まだまだ、戦争の後を引きずって生きてきたのである。もっとも、本人はそんな意識はなかった。ただ、今思うと、焼けた硝子や瓦の破片や「あか」といって銅線が土の中に埋もれていたことを思い出す。それをくず屋に売り払い小遣いにしていたものだ。当時は銅が高く売れる時代であり、お宮様の銅葺きの屋根がよく盗まれたというお話を聞いたものだ。また、マッカーサーの名前やB29の爆撃機のお話もよく聞いていた。真っ赤なザリガニのことをマッカーと呼んでいたことを思い出す。
そういえば、原爆マグロの話もあったなと思う。当時を思い起こすと、現在の福島原発の放射能汚染がその後半世紀を過ぎ勃発されたとは思いもよらなかった。
さて、当時の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは当時の首相幣原喜重郎に対し、五大改革指令を命じた。その内容は
であった。
1946年、GHQは日本国憲法を成立させ翌年から施行した。大日本帝国憲法を改正する形をとり、主権在民、象徴天皇制、戦争放棄、男女同権などの理念を盛り込んだ。また改革の大きな柱として戦争協力者の公職追放、財閥解体、農地改革などが含まれる。
戦後、新憲法ができ、基本的人権、男女同権、戦争放棄等をうたい憲法が大きく変貌した。農地改革なども実施され小作人に土地所有が認められ、大きく変化した。特に農地改革は大きな変革ではなかったかと思う。また、財閥の解体も経済に大きな変革をもたらした。
このようにフランス革命を中心とする人権思想が日本にも導入された戦後ではあるが、まだまだ、地域には江戸時代のような封建的な風習が残っているのが現状である。
不易流行を基本にすえつつ、この辺の打開をStep by stepでやっていこうと思う。今年は自治会の役員にもなり、自治少しずつ見直しが必要な時期にきている。
戦後70年になろうとしているが、制度は変わっても意識の変革まではまだまだ、時間がかかるだろう。日本の伝統的なよさと民主的なよさのバランスが大切だと思うこのごろである。