人間クリエイターにならなきゃつまらない。でも、才能がない。主体的に生きようとしている人なら誰でも思ったことがあるはず、最後は自分で自分にそのマジックをかけてしまっている。才能がない、年だから、時間がない、英語ができないetc。
私もその一員である。凡人はみなそうなのである。音楽会にいく。ただ聞いているだけ、やっぱ、自分でもやってみたいなと思う。ちょっとかじってみるが、やっぱり才能の壁にぶつかってしまう。
書道もいつかやってみたい気がする。墨の濃淡の差や運筆、筆圧などにより色々な表現があるだろうと推察される。まあ、これは音楽と違い誰でも文字ならまずかけるので、うまい下手をいわなければ、それなりにできるだろう。
ただ、音楽は楽器が弾けなければしょうがない。待てよ、歌なら楽器はいらないと思い、自分の体が楽器だから。市民合唱部に入り歌ったこともあった。また、専門家の方と懇意になり特別なレッスンを受けた事もあった。彼もいつの間にか冥土の世界にいってしまった。わたしはどうも、音程がずれるところがあって感情は入るのだが減点対象になっている。今でも、カラオケは好きなほうであるが、音程には自信がない。下手な横付きの部類だろう。外れてることは分かるので先天的な音痴ではないのだろう。
そうこうしているうち、自分でも驚きなことが起こった。小学校で音楽主任になり、器楽部の県の音楽コンクールに指揮迄ふるうようになってしまった。縦に5,6段並ぶスコアが少し読めるようになった。コンダクターは最高におもしろかった。指揮棒1本で子ども達は動くのだ。彼等には能力がなくて迷惑をかけたかと思うが、音楽のおもしろさのフィールドは提供できた。
ただ、哲学的指向が好きだったので、音楽とは何かという根本はよく分かっていたつもりだったが、自転車操業しながらやっていたような感じだった。相変わらす楽器が得意でなかったので、これは困った。
ピアノがうまい同僚がうらやましかった。どうも、今での腕前はバイエルがやっとできる程度である。これでも、楽器会社に勤めていたこともあり、電子オルガンも少しは習った。当時の職場で電子オルガンを作っていたから。かっこよく弾いていた人もいたなあと今は追想している。
まあ、人間、ベストを求めなくとも、ベターを求めるならほどほどにはできるものだと思った。ベターの積分がベストにベクトルを向けていくのだなと思う。
しかし、何でもその根底には人がなんと言おうと心底自分ではいいんだという強い肯定観が大事だと思う。これで、自分は生きているんだという強い自己肯定観ほど強いものはない。私もこれで、どうにか生きながらえて来た。
心理学ではよくこれを自尊感情という。教育も最終目標はすべてこれに繋がるものだと私は考えている。これが育てれば、テストの点など関係ないし、自分には自分の役割があるのだから人と違ってもいいという事になる。「わたしと小鳥とすずと」という「金子みすず」の詩がそれである。」
その自信をつけさせることが大事である。テストをやることにより、自尊感情をそこなうようなことが、断じてあってはならないのだが、どうも、子育てにもその辺に大きな問題があるようだ。なにおかいわんや自分の人生だから、自分が満足することがまず大切である。
私はかってはサラリーマンをしていた。会社に勤めたり、公務員(その間4年間、無事大学卒の資格を得た。新しい知識を得ることで喜びいっぱいの時だった。)もしていたりした。
京都に3ヶ月いたのも若き日のいい思い出だ。あのころは一番多感な時期だった。京都に転勤し営業職にまわされ、将来の事を考え、わずか京都在住3ヶ月で退職した。
その後、いつの時代でもいくら世の中が進歩しても人でなければできない仕事を天職として考えるようになった。その中の一つに社会福祉や教師があった。ずっと、官僚をやっていこうかとも思った時期もあったが、結局、学校の教師になった。
はじめは中高の社会科の教師になろうと思っていたが、中学の試験では落とされてしまった。なぜ、社会科の免許をとったか。それは、世の中のすべてが社会現象そのものだからだ。その勉強もしたかった。でも、現実は難しかった。現に務めていた場所には夜間の商科という学科は合ったが社会学がないのだ。
理想をいっても、いまいる現実の中で考えなければらちはあかなかった。本当は社会学を勉強したかった。その短大を卒業し、通信の3年次に編入し、早速、後、最短2年で卒業し、中高の教員免許も取得するという目標を立てたが、やはり社会学部は通信の大学ではあまりなく、手っ取り早いところ社会科の免許が取れると言うことで法学部政経学科に編入し卒業した。幸い私はいい意味で完璧主義ではなかったため2年で卒業できた。広く浅く好奇心が強い方だったので、中学では採用が無理だが、小学校の助教諭に正採用で採用してくれることになり、埼玉で教師生活がスタートした。
その代わり3年間で小学校の免許を取らなければならなかった。どうにか、他の通信大学を修了し3年間で免許は取れた。その時、勢いで幼稚園の免許もとろうとしたが、あまり色々な所へ首をつっこむと浮気心が出て焦点が定まらなくなるのでやめておこうと言うことになった。
音楽はもともと好きではあったが、ピアノは弾いたこともなかった。父が楽器会社に勤めてピアノを試作している部門にいたが、教育には熱心でなく「お父さんオルガン作って」と、小5位に父にいった事があった。ちょっと弾いて見たかったのである。それも、いつの間にか立ち消えになってしまった。
教育に熱心な親の元で生まれるか否かの差は大きいなと後になって痛感した。子どものころ、吹奏楽を聴いた入りするとよく鳥肌が立つことは経験していた。何でも興味があったので、一度はさわって見たかったのだろう。
教師になり、音楽がやってみたくて仕事が終わってからピアノの先生の所にいき習った。バイエルが3年かかった。どうにかそこまでは終了した。まだ、最初の2年間は音楽をやらなかった。小学校は一応すべての教科ができた方がいい。これは私の全人教育の考え方からだ。人間をトータルに評価するには全体を俯瞰することが大切だ。
最近はやたらに専門化してしまう。これでは、子どもの才能を伸ばすことができないと思い。私はすべての教科を教えてみた。主任も社会科、家庭科以外は何でもやった。また、教わるときには最高のものに振れるのがいい。これは経験上知った。すべてに対してである。特に芸術には妥協は禁物だ。まあいいや、凡人はこれが一番いけない。すぐ、自分と妥協してしまう。どこかで、この殻から抜け出さないと本物はつかめない。でも、どこかで妥協するすべをしらないと生きていけないのも凡人の性でもある。私も立派なことはいえても凡人だなとつくずく思う昨今である。
やりたいことはいくらでもあるが、視力や聴力が落ちていくのは致し方ない現実の事実なのだ。加齢は華麗だと強がりをいってみても、確実に新しい世界に向かっている自分がいる。それが、自然、なすがまま、あるがままの人生を、きょうもケセラセラで生きている。