想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

海に漂う“見えないゴミ” マイクロプラスチックの脅威から考える

2015年12月08日 | エッセイ

 前々から気になっていたプラスチックの問題が、段々、日本でも騒がれるようになって来ました。でも、今のところは温暖化や中国のPM2.5の影になっている感じです。

 空を汚すのも海を汚すのも地球にとって大変なことになるのです。問題は食物連鎖が怖いのです。一人の問題でなく連鎖していくのです。大地も海洋も大気も同じ系列の環境問題です。

 これは由々しき問題だなと思います。そもそも、ごみは古来はなかったことなんです。有史以前は何事も自然と共にの時代ですから…。その後、人間が文字を獲得し産業が発達すると共に徐々にごみの問題が出てきました。

 ごみは不要なものという考え方です。そもそも、不要なものは地球には本来存在してないはずです。自然の循環のサイクルの中では…。葉っぱも紅葉し地上に落ち、大地となり、土地を肥沃化させ、また、新しい生命を生み出していたのです。

 どれも、本来、必要があってこの世に誕生しているはずです。

 もし、このような大気や海洋の問題が指摘されるとするならば、人類がこの問題の大きさに気がついていないだけで、やがて、温暖化で大地が沈み、住むところがなくなってきて初めてきづくでしょう。

 それでは、もう遅いのです。一人の力は小さいのですが、みんながこのような問題を真剣に考えるようになれば、大きなエネルギーにはなるはずです。ですので、小泉もと総理も現役時代では考えてもみなかった原子力の問題に気がついたのでしょう。

 時の総理ですらそういう現実があります。

 クローズアップ現代でも10月29日に放送されたらしいのですが、私はうっかりしてみていなかったようです。こんなに大きな問題になりつつある現状があるということをうっかり忘れていました。大気も大変だが、海の中でも汚染が進んでいる現状を憂えているのです。

 そうです。もともと、海も空も、大地もつながっていたのです。このつながっていたという考え方が大事なのです。

 解決策として今後も時間はかかるのですが、まず、ごみの教育を環境問題の中心にすえ、長い時間かけて継続して義務教育からする必要があると思います。

 ほっておいても自然に帰らない物質がごみなのです。そう、教えるのが一番いいのではないかと思います。単にごみといっても、どれがごみで、どれがごみでないかの分別がつかない人が多いように思われます。

 ですので、プラスチックの紐や袋をすてれば、それは、大地の肥やしにならないのですから、これはごみとして処理しなければいけないのです。

 しかし、生ごみは本来ごみではないのですから、大地にやさしく返して上げなければいけないのです。それが、次の命につながっていくのですから。

 そういう、教育を小さいときから環境教育の一環としてしっかり身に着けていく必要があるのです。

 物を作り出すことばかり熱心になるのではなく、それを分解し大地に返してあげるという思想が必要なのです。

 今の、物あまり現象やごみ屋敷なども同じような現象でしょう。物を作り出すことや物を買う面ばかりが進んでいて、それを生かし、その後、どう始末するかという後の部分がまるでありません。

 昔から、いうでしょう。「木登りは降りるときこそ、気をつけなさい。」とね。

 原子力もまだまだ、最終的な処分方法が分からないというのではありませんか。その辺のことが分かってから、なぜ、やらないかということです。今の法制度の中でその辺が抜けているようです。そのつけは、次世代にくるのですから大変な問題です。自分の世代がよくでも次世代にいい循環がつながっていかなかったら問題です。

 なんでも、すべての事は、循環するのですから、発明も発見もその後の循環を考えないと大変なことになります。その発見により逆に次世代が苦しむことになります。その辺の流れの中での発見が大切です。

 大きな発見もその後の使い方で全然評価が違ってきます。ダイナマイトを発見したノーベルさんはノーベル賞の仕組みを考えて立派だと思います。

 さて、よく、学校でも「ごみを拾いましょう。」的なことをスローガンでいいます。ごみを拾うよりも捨てない教育をしたほうがいいのにと思ったことがありました。

 拾うようなよい子は捨てたりしません。捨てる子はもともと、なんとも思っていないから捨てるのです。その辺の根本を教育しないといつまで立っても捨てる子は何の意味もなく捨てるし、拾う子は善意だと思って拾うというおかしな循環ができてしまいます。

 社会もこの辺の原因を作っている子に気づくような仕組みや制度を作っていく必要があるのではと考えた時期もありました。

 先史の時代にはごみという考えはなかったのです。すべ手が、自然のサイクルの中で営まれていたのですから、

 すべてがもったいないかけがえのない物だったはずです。(日本のもったいない精神こそ次世代に明るさをもたらすのです。そういう意味では今度の東京オリンピックを大きな起爆剤にしたいです。)

 その後、産業や科学が発達する中で必然的に出てきた産物なのです。3.11でも震災が叫ばれました。震災も元を正せば、自然の災害です。

 自然には本来、災害や余分なものはなかったのです。自然の摂理が必要としたからそこに存在するのです。災害やごみという概念はもともとないのです。エネルギーがたまれば爆発するのが自然の原理です。

 人間が自然から離れて効率を追求し、経済的側面から物事を考えるようになり、このような人災的な問題が噴出してきているのです。

 宇宙の目線から人のあり方を見直していかないと、この青い地球の存在もおぼつかないものになりつつあります。

 今の、社会を徐々に自然循環型にしていく必要があります。すべては自ずとしかるべくして、自然に発生してくるのです。

 圧縮されれば爆発するのが、道理です。爆発させないためには、爆発をとめるのでなく、圧縮をとめるのです。そうすれば、爆発はなくなるのです。この辺の考え方が、おかしくなっているなと感じることが多々あります。

 自然の摂理でそうなっているのであり、もっと、悠久の宇宙の果てから、今の人類を見直していく必要があります。

 私には科学は自然を解明することには必要だけれども、自然にない物を作り出すことは自然を破壊するものだと思います。クローン人間や不老不死などは、とても、考えられません。

 人間は生物ですので、必ず死を迎えます。その死はやがて、新しい命を産み、連綿として人間は時間軸の中でつながっているのです。また、他の生物の中でもつながっているのです。

 個人は一生ですが、人類は面々としてつながっていくのです。この辺を考えて基本的人権思想もいく必要があります。個人の人権を超えていく面の教育も必要です。

 憲法第11条の基本的人権思想も本当は、この辺の深い意味の上に成り立っているのです。一人だけが幸せになっても、絶対その人の幸せは実現できないのです。すべてはつながっているのです。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

  この、現在及び将来の国民に与へられるというところが大切です。ややもすると将来の国民というところが欠落しまっています。永久の権利とありますから、このことからも、将来につながっていかないと、永久にはなりません。この辺をしっかり教育しないと、いけません。個人は単なる今の自分の個人だけでなく、将来を含め諸々の人の個人もあるのです。自己中=人権がまかり通っている世の中であってはなりません。

 人間は万物の霊長などとおごっている場合ではありません。他の生物と一緒に生きているのです。

 やはり、ない物を作り出す考えから、あるものの尊さや価値を認めて、その中から学んでいったほうがいいのではと思います。

 もともと、地球に存在しなかった、プラスティック、原子力なども同じだと思います。今はその正の部分を強調していますが、やがて、それが雨となって地球に降り注いでいるように思えてならないのです。

 自分で作り出したものが、自分を滅ぼすことがないようにしたいものです。本来の人間のあり方に戻ってきてほしいです。

 

寿司、刺身上達法

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