http://www.yourepeat.com/watch/?v=nFMpW3hlYlo 月の沙漠 フランク永井
http://www.yourepeat.com/watch/?v=P0lxCFv-nW8 月の沙漠 二胡
http://www.yourepeat.com/watch/?v=3gQhs7jgkiI 新説 月の沙漠
「月の砂漠」の歌を初めて聴いたのはいつだっただろうか。4,5才の頃のような気がする。昔から、深遠なものに惹かれていた私にはぴったり来る歌だったのだろう。屋根に上って眺めたまばゆいほどの星の空がよみがえって来る想いがする。
こうして、今、聴いているフランク永井の歌う「月の砂漠」も雄大で、静かで、それでいて、温かく、ほのぼのしていて淋しくもあり、ロマンも感ぜられる。色々な感情がわき上がってくる。
これが情動というものだろう。今風の言葉でいえば、心にキュンときてしまう。
月もいい、月明かりもいい、砂漠を照らす月明かりが、広い広い大陸の砂漠を寂寞(さくばく)として照らしている。明るすぎず暗すぎず、月明かりは日本の心につながる。
月を歌った詩は限りなく、存在する。それだけ、日本人には親しまれてきたしぜんである。十五夜などは特になじみが深い。さんさんと輝く太陽もいいけど、月は日本人にはなくてはならない要素になっている。
与謝蕪村「月天心 貧しき街を 通りけり」は私の好きな俳句である。
「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる。」と、いった金色夜叉(こんじきやしゃ)は、尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説である。この時代でも月明かりは大事な要素になっている。
砂漠は適度な高低差があり、そこをゆっくり上下に左右に揺られながら行く金銀のお二人の姿は神々しくもあり、ほほえましくもある。
金銀の鞍や「かめ」もしっかりとひもで結ばれているし二人の気心もぴったりなのであろう。人や国家のつながりもこうありたいものだ。
王子様、お姫様はゆっくり、おそろいの白い服を着てどこへいくのか歩みを進めている。
なぜか、日本でも、白は昔から神聖な物として扱われている。色の基になるものだろう。
人は論理のみで生るにあらず、感性や情緒で生きているなと、つくづく感じる。「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される」
理知的でいようとすると人間関係に角が立って生活が穏やかでなくなり,情を重んじれば,どこまでも感情にひきずられてしまう一面もある。
でも、この情をどう洗練させて行くのかが大切である。情操という言葉もあるではないか。情をどこまでも高め、知をオブラートで優しく包む。これが最高ではないだろうか。
だから、どんなに科学や世の中が一見、進歩してきているようでも情は尊くもあり、人間の尊厳を表わしているのでしょう。私的には進歩も退歩もないと想っている。今、その刹那があるだけだ。その瞬間を輝かせるしかない。
人の涙も知ではなく、情から出てくる。怨念や悔しさ、怒りも情であるが、どうせ出る涙ならもっと、人の幸せに役立つ涙にしたい。最近せちがらい世の中になり、美しい人を慈しむ涙が出なくなった人が多くなって来たようで悲しい現実である。
もっと浄化された涙にしなくてはなりません。涙は精神カタルシス効果があることも分かっています。
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