十一番
左 旬 四月一日 殿中将
もろ人のつらなる袖に通ふなりたまふ扇の風ものとけく
(右歌略)
左歌たまふ扇の風ものどけくと侍風情めづらしく。祝の心さへそひ侍り。右も又たけたかく詞いひしりてよろしく侍ども。猶左可為勝之由。判者申き。
左扇を臣下に給にて。題の心は侍べきにや。旬と申は天皇の政にのぞみ給儀也。是は四月一日の旬の事にて侍り。夏冬の季のあらたまる始に臣下に御酒をたび政をきこしめす也。旬には様々の儀有。内裏あたらしく造られて。はじめて南殿に出させおはしまして。政ををこなはるゝをば。新所の旬と申。位につかせ給てはじめて政にのぞみ給をば。万機の旬と申にや。此四月の旬には内侍扇を持て上達部に給へば。ひざまづきて請取作法などあるにや。
(年中行事歌合~群書類従・第六輯)
建保六年四月、中原師光朝臣始て権少外記にて平座の見参奉りけるをみて、かへりいてゝ父師重朝臣の許につかはしける 前中納言家定(ママ)
末とをき若葉の草のみとりより庭の訓の跡そたかはぬ
返し 中原師重朝臣
若草の末たのもしき陰そとも庭のをしへをしる人そしる
(新千載和歌集~国文学研究資料館HPより)
見れば氷雪のごとく齅(か)げば桐のごとし 侍女黼帳(ふちゃう)の中より伝ふ
(贈納言)
寛平二年四月一日、例に依り、群臣に飲を賜ふ。別に掌侍(ないしのじゃう)藤原宜子に勅して御扇を頒(わ)かち賜ふ。詩をもつて思ひを取る。
(江談抄~岩波・新日本古典文学大系32)
(長保五年四月)一日、庚申。
「公卿が参らなかった。見参簿を奏上しなかった」と云うことだ。四日に右中弁(藤原朝経)が来訪して、公卿の不参によって見参簿を奏上しない事は、先例が有るということを伝えられた。「外記が申しました」と云うことだ。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(承元元年四月)一日。天晴る。夕に陰る。(略)今日、旬の蹴鞠。毎旬堪能の緇素、京より参集す。酉の時許りに、南庭に於て御鞠千に満つと云々。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(建暦二年四月)二日。天晴る。少将白重を着し、修明・陰明両院、内裏に出仕せしむ。申の時許りに帰り来たる。仰せに依り、衣冠を着して帰参す。宗宣・棟基、白重を着して出仕と云々。近代非職の雲客、一人も更衣する者無し。無慙と謂ふべし。更衣、又習礼有るべきか。然らざれば、永く此の事有るべからず。平座、今日之を行ふと云々。更衣の御装束、同じく今日と云々。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
二孟旬<四月。十月。>
ワカキ上達部ハコノ日白重ヲ着。无文ノカブリ。白キコメノシタガサネ。シロキムモンノミガキバカマ。白帷。白単。マキヱノタチ。无モンノオビ。コノ日モ一ノ人トノバラハ螺鈿ノ剣ヲハキ給。代ノ始ニハ旬ヲヲコナハル。サラヌトキハヒラザトテ。出御モナクテ。仗座ニテ見参ヲソウセラル。殿上人ハコノ日出仕スレバ。老タルモ若モカナラズ白重ヲ着。御禊ノ日マデハアラタメザルニヤ。(略)
(助無智秘抄~群書類従8)