敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 港の渚鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿の 荒礒の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人船に ま楫掻い貫き 白栲の 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや
右掾大伴宿祢池主作
白波の寄せ来る玉藻世の間も継ぎて見に来む清き浜びを
(万葉集~バージニア大学HPより)
廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首
ここにして そがひに見ゆる 我が背子が 垣内の谷に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥 我が宿の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは恨みず しかれども 谷片付きて 家居れる 君が聞きつつ 告げなくも憂し
(万葉集~バージニア大学HPより)
敬和立山賦一首并二絶
朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは
立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ
落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ
右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日
(万葉集~バージニア大学HPより)
四月(うづき)の末つ方のことなるに、なべて青みわたる梢(こずゑ)のなかに、遅き桜の、ことさらけぢめ見えて白く残りたるに、月いとあかくさし出(い)でたるものから、木陰(こかげ)は暗きなかに鹿のたたずみありきたるなど、絵に描(か)きとめまほしきに、寺々の初夜の鐘ただいま打ちつづきたるに、ここは三昧堂(さんまいだう)つづきたる廊なれば、これにも初夜の念仏近きほどに聞ゆ。
(とはずがたり)
四月廿三日、あけはなるる程、雨すこし降りたるに、東のかた、空にほととぎすの初音鳴きわたる、めづらしくもあはれにも聞くにも、(和歌略)
(建礼門院右京大夫集~岩波文庫)
四月晦日
たが里にまづ聞きつらん郭公夏は所も分(わ)かず来(き)ぬるを
(和泉式部続集~岩波文庫)
(弘仁四年四月)甲辰(二十二日)
天皇が皇太弟(大伴親王)の南池(淳和院)に行幸した。文人に命じて詩を作らせた。右大臣従二位藤原朝臣園人が、次の和歌を奉った。
今日の日の池のほとりにほととぎす平は千代と鳴くは聴きつや
この和歌に天皇が応じて、次の和歌を詠んだ。
ほととぎす鳴く声聞けば歌主と共に千代にて我も聴きたり
大臣は喜びと感謝を示す舞踏を行い、雅楽寮が音楽を奏して、五位以上の者に衣被、諸王・藤原氏の六位以下の者、ならびに文人らに身分に応じて綿を下賜した。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(弘仁五年四月)乙巳(二十八日)
天皇が左近衛大将正四位下藤原朝臣冬嗣の閑院に行幸した。宴席はよく整い、はなはだ風流な趣向があった。天皇は筆をとり、群臣が詩を献上した。当時の人々は佳会だとした。冬嗣に従三位、妻である無位藤原朝臣美都子に従五位下を授け、五位以上の者に衣被を下賜した。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛元元年四月)二十五日、戌寅。
左府の許に参った。土御門院において競馬が行なわれた。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長保二年四月)二十三日、庚午。
内裏に参った。中宮の御読経が結願を迎えたのである。この日、殿上間において、蔵人弁と阿波権守が左右に分かれ、競馬(くらべうま)に挑む者を取り分けた。蔵人頭二人は、左方に入った。右方に取り分けたのは済政朝臣の失態であった。人々は怪しむ様子が有った。左府の許に参った。御読経始が行なわれた。今日の夕方、また内裏に参った。夜半の頃、左近の馬埒において、馬を馳せた。
二十四日、辛未。
左方の人々が左近馬場に到り、競馬を行なった。内裏から退出したのである。
二十五日、壬申。
蔵人弁と同車して、土御門院に参った。馬場において競馬が行なわれた。競馬十番は引き分けであった。「丞相の厩の馬の駿蹄四疋は、右方に下給した」と云うことだ。「皆、五番以上を立てるべきだ」と云うことだ。「そこで、左方は下品(げぼん)の馬を五疋以上、立てた。挑事の本意(ほい)ではないとはいっても、本家は左方については御用意が無かった」と云うことだ。そこで、駿馬を上に立てなかった。主人(道長)は御機嫌が宜しくなかった。そもそも子細を記さない。今後の先例とはならないのである。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長保五年四月)二十四日、癸未。
藤中将(実成)と権弁(道方)が来た。同車して雲林院に赴き、蹴鞠を行なった。左源中将〈頼定〉も同じく来た。右近陣の馬場の競馬を見た。家に帰った。
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(長保五年四月)二十六日、乙酉。
(略)
左右金吾・弼相公・左大丞(忠輔)が天皇の御前に伺候した。掩韻(えんいん)の御遊が行なわれた。(略)
(権記〈現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛弘四年四月)二十五日、辛卯。
内裏密宴に際して、天皇の御前の御室礼は、(略)。清涼殿の南東の滝口から前に、大鼓一面を立てた<左衛門府の舞台である。>。滝口の廊の内は、特に召された文人と楽人の座である。(略)人を召した。酉剋であった。中務親王・前太宰師親王(敦道親王)・私・右大臣(藤原顕光)・内大臣・東宮傅・右衛門督・左衛門督・権中納言・尹中納言・中宮権大夫(源俊賢)・新中納言・勘解由長官・左大弁・左兵衛督・式部大輔(菅原輔正)・宰相中将・春宮権大夫・三位中将・源三位・右兵衛督(源憲定)が、座に着した。下﨟の公卿は、長橋に円座を敷いて伺候した。次に文人を召した。(略)次に、殿上人が、紙と筆を取り次いで、親王と公卿に賜った。内蔵寮の官人が、紙と筆を文人に賜った。(略)権中納言藤原朝臣(藤原忠輔)を召して、詩題を献上せよとの天皇の仰せを伝えた。中納言は座に復し、題目を書いて持って来た。私はこれを受け取り、座の前において筥に入れ、同じ道の前を通って、奏上した。勅許が下ったので、また清書させた。文人を召して、一の座の(源)為憲に題を賜った。私は本座に居たままで、これを賜った。その次に、天皇は(大江)以言に序を奉るよう仰せられた。次に王卿の中で詩作を得意とする者が、探韻(たんいん)して詩を作った。殿上人と文人も、また同じく作った。終わって、参音声(まいりおんじょう)が奏されたことは、常と同じであった。文人は、仙華門から座に着した。右兵衛尉多吉茂(おおのよしもち)が、一鼓(いっこ)を打った。天皇が文人たちにおっしゃって云われたことには、「着座の後、上下の者に衝重(ついがさね)を賜うように」と。二献の宴飲の後、天皇の御前を供した。この間、音楽を演奏した。夜通し、物の音が断えなかった。暁方に及んで、密宴が終わった。
二十六日、壬辰。
辰剋に、以言は序を天皇に献上した。召された文人たちは、作った詩を献上した。天皇の仰せによって、文台の上の筥を取って詩を入れさせた。(略)講師(こうじ)を奉仕することになっている(大江)匡衡朝臣が、詩を披講した。この間、王卿や殿上人は、御前近くに伺候し、文人は砌の下に伺候した。披講が終わって座に復し、酒肴を賜った。(略)天皇がおっしゃって云われたことには、「二人の親王に、各一品(いっぽん)を加叙(かじょ)せよ」と。(略)大内記(菅原)宣義に位記(いき)を作るよう命じた。この両親王は、長橋から下りて拝舞し、本座に復した。この間、楽二曲を演奏した。罷出音声(まかでおんじょう)は、参音声と同じ様であった。楽人たちは御竹の下に留まった。私は天皇に御笛を献上した。中務親王は琵琶を弾じ、宰相中将は笙を吹いた。特に召しておいた楽人は、(藤原)惟風朝臣・孝義・(藤原)知光・(藤原)則友・(藤原)長能・(藤原)公忠・(藤原)遠理・(三国)到貴・(三善)考行・(伴)惟信であった。召された文人である、為憲・(源)孝道・(滋野)善言・(藤原)弘道・以言・(藤原)挙直・(藤原)輔尹・(豊原)為時・(藤原)敦信・(大江)通直・宣義・(高階)積善・(大江)時棟・(菅原)忠貞・(源)頼国・(藤原)義忠・(藤原)章信は、座を立って退出した。次に文人たちに疋絹(ひつけん)を下賜した。殿上人にも、また同じく疋絹を下賜した。親王と大臣には大褂(おおうちき)一重(かさね)であった。御下重(したがさね)を添えた。納言以下(いげ)に大褂一領を下賜した。賜禄(しろく)の儀が終わって退出した。(略)
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
(寛弘四年四月)二十九日、乙未。
未剋の頃、右衛門督・左衛門督・源中納言・勘解由長官・文人十余人が土御門第に来て、作文を行なった。題は、「流水が、笙歌と調和する」あった。韻は音であった。
(御堂関白記〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
永承五年四月廿六日、麗景殿女御に絵合ありけり。(略)題は鶴・卯花・月になん侍ける。此比(このころ)は郭公などこそあるべきを、大殿の歌合の侍ればとて、鶴にかへられけるなり。相模・伊勢大輔・左衛門命婦ぞ読侍ける。女房廿人、十人づゝをわかちて、各(おのおの)絵かく人を伝々(つたへつたへ)に尋てかゝせけり。(略)御簾の内には、北面分てゐたり。左、なでしこかさね、右、藤かさねの衣をなんき侍ける。左、かねのすき箱に、こころばへして、かねのむすび袋に、色々の玉をむらごにつらぬきて、くゝりにして、古今絵七帖、あたらしき歌絵のかねのさうし一帖入たり。表紙さまざまにかざりたり。打敷・瞿麦(なでしこ)のふせんれうに卯花を縫たりけり。敷さしの金の洲浜に、さしでのをかをつくりて、葉山に松をおほくうゑたり。敷には松をさしうつすべきなり。打敷ふかみどりの浮線綾なり。右、かゞみ海に金の鶴うけたり。かねの透ばこをうけにおきて、絵のさうし六帖、あたらしき歌絵の草子一帖を入、表紙の絵さまざまなり。打敷二藍のざうがに、白き文をぬひたり。敷さしの金の洲浜に、金の鶴あまたたてり。千とせつもれるといふ心なるべし。敷にはつるのうらづたひすべきなり。打敷ふかみどりのざうがに、縫物をしたり。日漸(やうやく)暮ぬれば、こなたかなたに居わけけり。(略)一二番、上達部の中にさだめやられざりけるを、殿上人の中より、勝負はいみある事になど侍しかば、げに此絵ども、おぼろけにては見さだめがたき事のさまなればとて、勝負なし。なかなかかちまけあらんよりは、みだれて面白かりけり。あたらしき歌をば、各つがはれけり。相模が卯花の秀歌読たるは、このたびの事なり。
みわたせば浪のしがらみかけてけり卯花さける玉川のさと
かはらけあまたゝびになりて、引出物などありけるとかや。
(古今著聞集~岩波・日本古典文学大系)
(嘉禄元年四月)廿二日。天晴る。小さき雷鳴。去年栽うる所の橘の花開く。欣びに感ず。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(承元元年四月)廿五日。巳後に雨初めて降る。炎旱、旬に渉る。下民愁悶す。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
二十五日 *(*戊辰。霽。)今夜、将軍家、五月ノ節ノ御方違有リテ、生西ガ家ニ入御シタマフ。
(吾妻鏡【安貞二年四月二十五日】条~国文学研究資料館HPより)
二十九日 庚戌。陰 未明ニ、将軍家、永福寺ニ渡御シタマフ。相模ノ太郎殿、御共ニ候ジ給フ。其ノ外、範高、知親、行村、重胤、康俊等、ナリ。上下歩儀タリ。是レ此ノ所ニ於テ、昨朝郭公ノ初声ヲ聞クノ由、之ヲ申ス輩有ルニ依テナリ。林頭ニ至ツテ、数剋之ヲ待タシメ給フト雖モ、其ノ声無キノ間空シク以テ還御シタマフ。今日ヨリ当寺ノ事ハ、行村奉行セシムベキノ旨、之ヲ仰セ付ケラル。
(吾妻鏡【建暦元年四月二十九日】条~国文学研究資料館HPより)