ひと葉づつ風におちゆく桐の葉のまれなる音の秋ぞさびしき(伏見院御集)
ひとしきり嵐はすぎて桐の葉のしづかに落つる夕ぐれの庭(風雅和歌集)
桐の葉もふみ分けがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど(新古今和歌集)
秋の雨に桐の葉おつるゆふぐれのもののあはれをとふ人もがな(嘉元百首)
むらさめに桐の葉おつる庭のおものゆふべの秋をとふ人もがな(続千載和歌集)
袖にさへもろき涙をさそふなり桐のおち葉の夕ぐれの雨(延文百首)
(2009年11月8日の「桐の落葉」の記事は削除しました。)
ひと葉づつ風におちゆく桐の葉のまれなる音の秋ぞさびしき(伏見院御集)
ひとしきり嵐はすぎて桐の葉のしづかに落つる夕ぐれの庭(風雅和歌集)
桐の葉もふみ分けがたくなりにけりかならず人を待つとなけれど(新古今和歌集)
秋の雨に桐の葉おつるゆふぐれのもののあはれをとふ人もがな(嘉元百首)
むらさめに桐の葉おつる庭のおものゆふべの秋をとふ人もがな(続千載和歌集)
袖にさへもろき涙をさそふなり桐のおち葉の夕ぐれの雨(延文百首)
(2009年11月8日の「桐の落葉」の記事は削除しました。)
謡曲「松虫」は、(夢幻能にはよくあることですが、)何だかよくわからない部分があるお話です。
男が1人、松虫の声をもっとよく聞こうとひとりで野原に分け入って帰ってこない。どうしたのだろうと、連れの男が探しにいくと、彼は草むらに横たわり息絶えていた。――さてその死因は何なんでしょう?という疑問に対する答えは一切なく、最後に、松虫の声を楽しむ宴(うたげ)の様子が語られて終わっているのです。
もう一つ気になる箇所は、「いつまでも変わらぬ友こそは、買い得たる市(いち)の宝なれ」というくだり。これって、市場で友人を買ったってことですか? この二人連れは、そういう関係なの? それなら、“友”って名付けるのも変な気がするし・・・。(いっそのこと、“友=酒”と解釈すれば、買うことも納得できるのでは?)
「四季祝言」の「九月九日」の祝言謡として、「松虫」の一節が採られていて、「いつまでも変わらぬ友こそは、買い得たる市の宝なれ」の部分もしっかり入っているのです。当時は、めでたい文章として、ハレの場で使用されていたということになります。この部分に関する、まだ知られていない説話とか逸話があるんじゃないんでしょうか。
ちなみにCiNiiで見つけた、落合博志氏の論文「『四季祝言』考」では、以下のような解釈となっています。
「この市で飲む美酒よりも、こうしていつも連れ立って市へ行く友(或いは、いつも市で会う友)、いつまでも変らぬ友こそが何より大切な宝なのだ」
国立国会図書館が「国立国会図書館資料デジタル化の手引 2011年版」を公開しました。(サイトは、こちら。)
近代デジタルライブラリーなどは、時々利用しています。目次データはテキスト化しているので、検索をかけることができます。このテキスト化の際は、A:OCRソフト+校正、B:手入力の2つの方法があるとのことで、手入力の場合は、同一テキストを別々の作業者が入力し突き合わせる、とあって、なるほどと思いました。
また、この手引の巻末には、「図書の原資料からの電子化仕様書」のサンプルが掲載されています。
「平家花ぞろへ」より、平忠房を花にたとえている文章を抜き出します。(「室町時代物語集成12」角川書店)
忠房は、平重盛の息子。屋島の戦いで落ち延びて、生き残りの兵と共に源氏方への抵抗を続けていたが、降伏し斬られた。
石に生(お)ひたる、わすれ草。
すみよしとあまは告(つ)ぐとも長居すな人忘れ草おふといふなり(古今和歌集)
住の江に生ふとぞ聞きしわすれぐさ人の心にいかで生ひけん(古今和歌六帖)
わすれぐさ生(お)ふとし聞けばすみの江のまつもかひなくおもほゆるかな(続後拾遺和歌集)
住吉の岸に生ふとは知りにけり摘まむ摘まじは君がまにまに(道綱母集)
住の江にふねさしよせよわすれ草しるしありとやつみにゆくべく(土佐日記)
すみの江に朝みつ潮にみそぎして恋わすれ草つみてかへらむ(貫之集)
道しらばつみにもゆかむ住の江の岸に生ふてふ恋わすれ草(古今和歌集)
今はさはこころにしげれ忘れ草うきをばたへてしのぶものかは(千五百番歌合)
わすれぐさ種(たね)とらましを逢ふことのいとかくかたきものと知りせば(古今和歌集)
(2009年11月5日の「わすれ草」の記事は削除しました。)