ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

凜として老後 ~私の母

2018-05-04 22:04:47 | 思い
 北海道の野山に、春がやって来た。
様々な緑色が、次から次と芽吹き、新緑がきれいだ。
 そして、モクレンやコブシの白、レンギョウの黄もいいが、
山桜の薄桃色が斜面を飾り、私の目を奪っている。

 じつは、私の母は、14年前のこの季節に亡くなった。
小鳥がさかんにさえずり、夜明けを告げていた時間帯に逝った。

 あの日、永久の別れに私は沈んでいた。
しかし、葬儀場近くにあった小さな山のあちこちに、
満開を迎えた山桜があった。
 前ぶれもなく、母からの励ましのように思え、
顔を上げ、涙をこらえた。

 今も、山々に点在する、丸みを帯びた大きな桜色を見ると、
母との別れを思い出す。
 そして、何故が力づけられている私がいる。

 その母については、このブログの
2015年3月『言葉にできないまま』と、
2017年『老いてからをどうする』で語った。

 今回は、父に先立たれた後、凜としていた母を記したい。
まずは、10年前に書いた『母より』を写す。


   *     *     *     *     *


 10月は、4年前に他界した私の母の誕生月であります。
明治41年の生まれですから、生きていれば百歳になるところでした。

 それこそ健康だった5年位前までは、
必ず毎日、新聞の隅々にまで目を通すほどで、
『今も、現役』と言った意識を持ち続け、暮らしていました。

 明治の人でしたので、
私を育てるにあたっても些細なところにまで気を配り、
箸の持ち方、鉛筆の握り方はもとより、
正座の仕方、帽子のかけ方、物はどんな物でも大切に使うことなど、
事細かに躾られた気がします。

 お陰で私は、一般的に常識と言われていることを大きく逸脱することなく、
青少年期を送ることができたように思います。

 30年前、父がガンで他界した時、
母はそれはそれは落胆し、
この先自分も半年と生きていられないとまで言い出す有様でした。
 そんな母の姿を見て、私たち兄弟はそれを疑わず、
一気に両親を失ってしまいはしないかと、
父の死に輪をかけるように悲しみに暮れたものでした。

 しかし、1人になった母は強く、
父の死からむっくと立ち直り、
1人暮らしを謳歌するかのように元気を取り戻しました。

 郷里の老人ホームで暮らす母を、
3年ぶりに訪ねた10年程前のことです。

 母の一室の窓辺では小さな野鳥が、
どうした訳か春より巣作りを始め、
私が訪ねた時には、ヒナにかえったばかりの幼鳥が、
さかんに親鳥が餌をくわえて飛来するのを、
待ち望んでいました。

 しかし、それ以上に私を驚かせたのは、母の姿でした。
私に久しぶりに会えると聞いた母は、
前日にホームの方に特別に依頼し、美容院に出かけて、
もう真っ白になった頭にパーマをかけ、
きれいに頭をセットしていたことです。

 よく母の世話をしてくれている姉の話によると、
父の墓へ行くときや久方ぶりの来客があるときは、
決まって頭をセットするとのこと。
 私はそれを聞き、またそれを目の当たりにし、
感動を覚えました。

 男女を問わず、いくつになっても忘れてはいけないこと、
そんなことをこの歳になってまで、
母より教えられた気がしました。

   *     *     *     *     *

 多くを語らなくても、一読するだけで、
父と死別した69歳から、亡くなった96歳までの、
母の老後が、どんなであったか、
分かっていただけるだろう。

 しかし、父が元気だった頃の母は、
生活の全てを父に託していたように思う。

 魚屋の食卓は、売れ残りを食べることもあって、
夕食の献立は、いつも父を頼りにする母だった。

 外出は決まって父と一緒で、前を歩く父の後ろを追っていた。
学生時代、珍しく母と私、2人で買い物に出た。
 自宅からすぐの交差点を渡ることになった。
信号機が赤にも関わらず、母は車道に出ようとした。
 慌てて、腕をつかみ静止させると、
「あら、青でしょう」と、横の青信号を指さした。
 いかに父をあてにした暮らしなのかを、実感した出来事だった。

 さらに言うなら、母は、
「だって、父さんがこれでいいって・・。」
と言って、いつもモンベ姿で、靴を嫌い、草履を愛用していたのだ。

 そんな母である。兄弟は、誰一人疑わず、
すぐに父を追って逝くだろう思っていた。

 ところが、翌年の3月末のことだ。
私の二男が、4月から保育所通いを始めることになった。

 きっと、尻込みするだろうと思いつつも、
せめて『慣らし保育の2週間』だけ、手を貸してほしいと、
電話で頼んでみた。

 1人で飛行機など、乗ったことのない母である。
なのに「1が月でいいの。私でよければ、手伝いに行くよ」。
 電話口から、元気な声がすぐに返ってきた。

 羽田空港の到着口から、多くの人たちに混じって、
大きな鞄を持った母が現れた。
 『人は変わる』。
私は、妙に心を熱くしながら、母を迎えた。

 それから7年もの間、年度末と年度始めの約2ヶ月、
仕事に追われる私と家内の手助けにと、
北海道と東京の間を、1人で飛行機に乗った。

 そして、我が家で家事の一切を引き受けてくれた。
その上、息子たちを迎えに、往復40分以上もかけて、
保育所まで行ってくれた。
 子ども達に、信号機の渡り方まで教えていた。
不思議な気持ちになった。

 実家に戻ると、1日に3,4時間は魚屋の店に立った。
馴染みのお客さんを相手に、
一緒に夕食の献立を考え、品物を売った。
 
 「父さん、今夜は何をこしらえたらいいの?」
いつもそう言っていた母の、転身ぶりに、
兄はただただ驚いた。

 その母も、80歳を越え、足腰が弱った。
数年後、店にも立てなくなり、本人の強い希望で、
老人ホームに入った。

 それまで母が小説を読む姿など、見たことがなかった。
「女学校の頃から、私、本が大好きだったの。」
 夏休みを利用して、初めてホームを訪ねた私にそう言うと、
たまたま持参していた山岡荘八の『織田信長』を手にとった。
 また驚かされた。

 「ここに来て、ゆっくり本が読める暮らしができるの。」
だから、「私は本屋へ行けないから、いい本を送ってほしいんだけど。」

 母から、そんな言葉が飛び出すとは思いもしなかった。
やや大袈裟だが、「同じ血が流れている。」そう思えた。
 訳もなく、嬉しかった。二つ返事で引き受けた。

 3,4ヶ月ごとに、4,5冊の本を送った。
特に、歴史小説を好んだ。

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を母が読み終えた時、
長電話でその感想を言いあった。
 その夜は感激のあまり、寝つけないまま朝を迎えた。
いつまでも胸が熱かった。

 母の死因は、老衰とでも言えるものだった。
孫娘が、病室でその最期を看取った。
 徐々に、息が細り、こと切れたと言う。

 その1か月半前、私は母を見舞った。
1時間余りだったが、体調について、母は語り続けた。
 私は、母との最期を予感し、言葉に詰まり苦慮した。

 「忙しいのに遠くまでありがとう。もう帰りなさい。」
「そうだね。そうするね・・・。」
 それが、別れの会話になった。

 病室があった3階から、エレベーターに乗った。
遠くで、車いすの母が小さく手を振ってくれた。
 私も、そっと手を振った。
 


   

  サイクリングロードの 桜並木

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