ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

自力でピンチを脱出  ~私の3.11

2016-02-19 22:01:18 | 思い
 つい先日、食文化研究家である長山久夫氏の、
エッセイに目がとまった。
『覚悟を決めた日』と題するそれは、
3.11の体験を記したものだった。

 その時、氏は江東区お台場近くの大きな病院にいた。
そこから西武線練馬駅近くの自宅まで帰宅するのだが、
その間の様々な混乱を語っている。
そして、結びでこう述べた。

 「巨大地震はいつおこるか分からない。
何かあった時、頼りになるのは自前の筋肉と直感力しかない。
歳も関係ない。
災害時にはまわりの人だって命がけなのだから、
自力でピンチを脱出するしかない。……」
 氏の教訓に、同感である。
同時に、5年前のあの日、東京にいた私を思い出す。

 当時、私は、校長職のカウントダウンをしていた。
卒業式まで2週間、退職まで3週間を残すだけだった。

 その日も、5校時が終わり、
帰りの会そして下校時間へと移っていた。
 「今日も無事終わる。」
気持ちが若干緩んだ時だった。

 突然、職員室の緊急地震速報が鳴りだした。
 「副校長さん、放送入れて。」と、叫んだ。
「緊急放送、地震です。地震です。
すぐに、机の下にもぐりなさい。」

 その放送が、終わらないうちに、
校舎は、グラグラと揺れだした。
 私は、校長室に備えてあるヘルメットをかぶり、
次第に大きくなる揺れの中で、
「もう少しで退職なのに、間が悪い。」
そんな思いが心をよぎった。

 次第次第に揺れは激しくなる。ピークが分からない。
 「これ以上大きくなると、子どもが危い。」
そんな危機感に襲われた時、揺れが止まった。

 ここからは、月1回実施してきた避難訓練が生かされる。
『訓練は実際のように、実際は訓練のように。』
私は、訓練のたびに、そうくり返し言い続けてきた。
 訓練のように、整然と校庭避難が行われた。
私の願いは、間違いなく浸透していたと思った。
 
 校庭で、子どもの安全確認と今後の安全確保へと進んだ。
各担任から副校長に報告があり、集約が進んだ。
 副校長と一緒に担任2人が、
少し緊張した表情で私のところに来た。

 2人は低学年の担任だった。
地震発生数分前に、子ども達を下校させたとのことだった。
 おそらく、下校途中で地震に見舞われている。
「だから、子どもの安全確認ができません。
下校させてしまい、すみません。」
と、顔色を失っていた。

 避難訓練にはない事態である。
でも、私は、すぐに応じた。
 「それはしかたない。無事に家に着いたか。
どうしているか。電話連絡をしなさい。」

 その後、2人には電話確認ができない子どもへ、
自転車をとばし、家庭訪問をさせた。
 近くの大人に手助けを受けた子もいたが、
2時間後、2学級とも全員の安全が確認できた。

 さて、その間、校内では様々な対応に追われた。
第一は、校庭避難をした子どものその後である。

 私は迷った。
3月とは言えまだ東京の外気は冷たかった。
とりあえず、もう一度教室に戻し、下校準備をさせたかった。
ジャンパーやコートを着せてあげたかった。
でも、余震が心配だった。
 これから先の避難行動は、すべて私の判断だった。

 校庭で、両膝をかかえて座っている300余名の子ども。
経験のない恐怖の中でも、
一人一人が気丈にいることがよくわかった。
 訓練のようにいる子ども達。
今こそ『外柔内剛』だと心に誓った。

 案の定、大きな余震がきた。
小さな悲鳴が聞こえた。
 私は、表情一つ変えずに、、
全児童と教職員の前に立っていた。
 この事態に対する情報は、ほとんど届いてこない。
判断は、私自身の想いと直感力しかなかった。
 
 校庭には、保護者の姿が徐々に増えた。
 私は、集団下校ではなく、
保護者への引き渡しを選択し、職員に指示した。
 下校後、一人、余震に震える子どもを想った。
頼れる大人の元に子どもをしっかりと託す道を、私は選んだ。

 「ランドセルなどの下校準備は、保護者の皆さんに引き渡した後、
保護者の方と一緒に行うか、
校舎へは入らず、そのまま下校するかしてください。」
 有能な副校長は、簡易拡声器でくり返し、それを保護者に伝えた。

 1時間後、残った子どもが50名ほどになった。
いつでもすぐに校庭避難ができるよう、
校庭への出入口がある1階の教室で、
暖をとらせながら保護者の迎えを待たせた。

 「学級の全員を引き渡すまで、
決して子どものそばから離れないように。」
 私は、担任に強調した。
 「今、子どもが一番寄り添える大人は、
担任以外にはいない。」
 そんなメッセージを暗に伝えたかった。

 最後の子どもを保護者に渡したのは、
深夜12時を回っていた。
 保護者は、仕事先の新宿から混乱する都心を抜け、
徒歩で学校までたどり着いた。

 それまで、泣き言一つ言わなかった3年生の女子だったが、
お母さんの顔を見るなり、
大声を張り上げて泣きだし、抱きついた。
 「いくらでも、泣いていいよ。」
と、言いながら、
担任は何度もタオルで目頭を抑えていた。
 たくさんの教職員で、親子の後ろ姿を見送った。

 次に、第2の大きな対応であるが、、
それは、まだ保護者への引き渡しの真っただ中から始まった。、
 区内小中学校を避難所とする決定が届いた。

 災害時用の服装で区職員2人が、
分厚い災害時マニュアルの本を小脇に、学校に来た。
 この本にあるからと、「避難場所はどこにしますか。」
と、突然私に訊いてきた。

 2人は、体育館だと思っていたようだ。
しかし、私は戸惑いながらも、3月のこの時季、
暖房のない所での避難に抵抗があった。
 体育館ではなく、1階の教室から順に、避難場所にすると答えた。
一瞬、「えっ」という顔を見せた。構わなかった。

 電車は、いっこうに動く気配がなかった。
夕暮れとともに、徐々に学校を頼りにしてくる人が増えた。

 急ぎ用意した避難者名簿に、50名を超える記載があった。
毛布2枚とペットボトルの水、缶詰の乾パンを配るよう指示した。
 そんな時、若い女性から、声が届いた。
「男性の方と一緒に横になるのはいやだ。」と言う。
 私は、急いで、男性用と女性用の避難教室を決め、
移動をお願いした。
 すると、今度は、
「こんな時だから、一緒にいたい。」
と言う男女が現れた。
 男女共用の避難教室も急いで設けた。
 
 マニュアル本を片手に、目を丸くする区職員。
「いいんだよ。きっとマニュアルにはないけどね。」
と、肩を叩いた。

 午後9時過ぎ、一気に80名の方が学校に来た。
近隣の大型店舗で、電車の再開通を待っていた人たちが、
閉店時間でしめ出された。
 店内放送が、近くの小学校が避難所になっていると知らせた。
どの人の顔にも疲労があった。
 みんなで協力し合い、迎え入れた。

 その日、『帰宅難民』と呼ばれる方が、
150名以上不安な一夜を私たちと一緒に送った。
 そして、多くの教職員が、その対応に献身的に当たった。

 翌朝、電車が動きだすのと同時に、
学校から人々の姿がなくなった。
 一夜を過ごした各教室の中央には、
毛布、ペットボトル、空き缶が、きれいに置かれていた。
 お礼の言葉がなくても、私には伝わるものがあった。

 教室に残されたそれらを、教職員と運びながら、
災害時用服装の区職員が、
「勉強になりました。」と、私に笑顔をくれた。

 もう一度、長山久夫氏の言葉を拝借する。
『災害時には……自力でピンチを脱出するしかない。』





  湿った雪が載ったジューンベリー

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