徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

わらべ と 清原さん と M君と

2015-06-08 10:58:16 | 友人・知人


 昨日、鶴屋ホールで行われた「第43回全日本きもの着付選手権大会熊本大会」の舞台を眺めながら感慨に浸っていた。
 僕が初めて ザ・わらべ に出逢ったのが6年前の10月。その時の新鮮な感動がずっと残っていて、翌年に入り、どうしても公演スケジュールが知りたくなり、いろいろ調べているうちにたどり着いたのが上村元三商店。後日、訪問して以来、今日までお付き合いいただいている。
 初めて元三さんを訪ねて行った時、驚いたのが、なんと僕が一番親しかった水球部の後輩M君の家の真ん前だったこと。その時は、彼が病で先立ってからあまり時が経っていなかったので、ひょっとしたら彼がここに呼んだのではないかと不思議な縁を感じたものだ。そのM君と高校の同級生で親友だったのが清原憲一さん。RKKのアナウンサーとしての活躍ぶりは知っていたし、母黌のプールにも時々顔を出し、水球部の後輩たちによく差し入れをしてくれていたのも知っていた。そのわらべと清原さんが同じ舞台に立っている。思わず、元気な頃のM君の顔が浮かんできて、なにか熱いものがこみ上げてきた。
※右の写真はM君が亡くなる2年ほど前、一緒に飲んだ時のスナップ。後ろに立つのがM君。

S部長とパソコン

2015-05-22 15:32:43 | 友人・知人
 パソコンなるものと付き合い始めて35年になる。最初の1、2年は思い出すだにおぞましい。当時のパソコンは自らプログラムを作るしか使う方法はなかったからだ。それでも僕が挫折することなく、今日のIT社会にもなんとかキャッチアップできているのは、ある人との出逢いがあったからである。
 その人と初めて出会ったのは僕が新入社員として研修を受けた1970年、横浜工場でのことである。その人、Sさんは当時従業員数2千名を超える工場の総務部長だった。180cmを超える長身でダンディな人だった。夕方になると毎日体育館でのバスケットで一汗流し、コーヒーの紙コップを握って事務所へ戻ってきた。年末の部内パーティーでは女子社員をリードして颯爽と社交ダンスを踊った。なにしろカッコよかった。僕の憧れの存在だった。僕たちの研修が終わり、配置先へ赴任するとSさんとは縁遠くなった。Sさんと再会したのはそれから約10年後、東京本社の地下、生協事務所の片隅だった。折しも、OA化ブームで僕が勤務していた栃木工場の生協にもパソコンシステムを導入することになり、先行していた本社に教わりに行ったのだった。そして、その本社の生協システムを開発したのがSさんだったのだ。あの颯爽とした横浜工場の総務部長だった人がなぜここに?いぶかしがる僕に先輩社員がそっと教えてくれた。それによるとSさんは横浜工場から他工場の総務部長を歴任した後、関連会社の社長として出向していたが、その時何かがあったらしく役付を全部外されたのだという。そこで本人は一念発起、ちょうど始まったばかりのOA化に自分の再生を掛けたのだという。当時既に50代の半ばを過ぎていたと思うが、独学でプログラミングを修得し、生協のシステムを自ら開発したのだった。その努力ぶりを見るにつけ、まだ若い自分に同じことができないわけはないと発奮させられた。そのお蔭で、なんとかCOBOLなどの言語を使って簡単なソフトを作れるようになった。その後、あっという間のパソコンのハード・ソフトの飛躍的な向上にも、なんとかついて行けたのは、Sさんに出会ったからにほかならない。
 ちなみにこのSさん、元宝塚のトップスターだった日向薫さんのお父さんである。

池島炭鉱とN君のこと

2015-04-18 21:25:20 | 友人・知人
 今夜のブラタモリは「長崎」の第2回目。港町長崎を海の方からの視点で見てみようというものだった。とりわけ僕が興味深かったのは「池島炭鉱」。長崎には何度も行ったことがあるが、もちろん「池島炭鉱」など行ったことはない。坑道に入った経験と言えば、6年前、荒尾の万田坑での映画ロケにエキストラ出演した時だけだ。
 それはさておき、僕には行ったことがない「池島炭鉱」に忘れられない思い出がある。それは20数年前のこと。当時、勤務していた彦根工場で10年ぶりの大量採用をすることになった。関西一円の採用だけでは賄い切れず、僕は九州各県の採用に出かけた。そして合計100名ほど採用した中で、僕がベスト1の人材だと思ったのが、N君という20代後半の青年だった。彼は池島炭鉱を辞めたばかりだった。体格もいいしクレバーで、しかも礼儀正しかった。彼は池島炭鉱の将来が決して明るくないことを見通して転職してきたのだった。僕は彼を育てた池島炭鉱がどんなところなのかとても興味深かった。今夜のブラタモリを見ながら、僕はN君の顔が頭から離れなかった。あれから20年以上経った今、彼はどんな生活をしているだろうか。

想い出の1枚

2014-08-27 19:49:49 | 友人・知人
 この写真は3年前、M先輩から送っていただいたDVDの中に収められていた1枚だが、今から53年前の昭和36年(1961)8月、川崎市木月にあった法政大学水泳部合宿所での一コマ。僕は済々黌水球部の1年生部員。人生初の上京そして東京合宿への初参加だった。うしろの左から二人目が僕だが、写真の雰囲気でもわかるように先輩方からほんとうに可愛がっていただいた。練習は厳しかったが、やさしい先輩方と励まし合う同級生がいたおかげでもったようなものだ。よく部活における下級生いじめの話を聞くがまったく信じられない。僕らにはそんなことは皆無だった。ちなみにこの合宿のあと、金沢市で行われたインターハイでは2年連続の全国制覇を果たした。
≪P.S.≫
 濟々黌水球部の伝統の一つが、OBなどからの差し入れがあると1年生→2年生→3年生の順番で食べる。


蘇州夜曲

2014-03-01 16:27:16 | 友人・知人
 朝ドラ「ごちそうさん」で希子こと高畑充希ちゃんが歌ったことで、ちょっとした話題になっている「蘇州夜曲」。戦前の映画「支那の夜」の劇中、ヒロイン役の李香蘭(山口淑子)さんが歌ったことで有名だが、僕にとってはこの歌は渡辺はま子さんの歌。渡辺はま子さんは僕の祖母が一番好きだった歌手で、幼い頃連れられて、熊本市公会堂に見に行ったこともある。テレビやラジオで李香蘭さんが歌うのを見たり聞いたりすることはなく、僕はこの歌は渡辺はま子さんの歌と思っていた。なんでも所属レコード会社の事情で李香蘭さんはレコードが出せなかったらしい。
 ところでこの歌は西條八十作詞、服部良一作曲によるものだが、映画「支那の夜」とともに中国では今日もなお、とても微妙な問題を含む歌だと聞く。日中関係が戦後最悪とも言えるこの時期に、あえて注目度の高い朝ドラでこの曲を使ったNHKの真意は?


S さんとの不思議な縁

2014-02-26 16:12:09 | 友人・知人
 日頃、親しくさせていただいているSさんから写真を収めたCDが送られてきた。水前寺公園の玄宅寺で踊る花童の子たちの写真集だった。いつか写真を見せてくださいと僕がお願いしていたことを思い出した。先日の「水前寺こいあかり」の時に手渡すつもりで持ってきていただいたらしいが、あいにく僕がまだ体調不良で行けなかったものだから、わざわざ郵送していただいたようだ。申しわけない。
 Sさんとお知り合いになって2年ほどになる。きっかけは3年ほど前から僕が熊本市歴史文書資料室へ調べ物をしに行くようになってからだ。そこにSさんの娘さんが勤めておられて、いろいろ史料探しのお手伝いをしていただいた。お父様のSさんと年齢的にも近く同じような趣味の僕をご紹介いただいたようだ。その後しばらくしてからSさんから僕のブログへコメントをいただくようになった。何度かやりとりがあってから、僕がブログで名優 笠智衆さんのことを書いたところ、なんと笠智衆さんの生家である来照寺にSさんの姪御さんが嫁いでおられるという。前から一度来照寺を訪ねてみたいと思っていたので、Sさんのアポで母と一緒に訪問が実現。おかげで心温まる歓待を受けた。そして、僕にはもう一つ気になっていたのが玄宅寺。森鴎外の「阿部一族」の中に出てくる寺本八左衛門直次の墓が玄宅寺にあることは知っていた。訪ねてみたいがなかなか機会を見出せなかった。ところがなんとSさんの奥様が寺本家の末裔であるという。なんという偶然。そしてまるで時を合わせたかのように花童の月例舞踊会が玄宅寺で始まった。8月1日の舞踊会にSさんご夫妻をお誘いし、その時初めてSさんご夫妻との対面が実現したのである。
 Sさんが撮影された写真の中から、とりあえず二つご紹介したい。僕には出せない独特の味があって極めて興味深い。

▼ Sさんがとらえた花童@玄宅寺