徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

「かむろ坂」のはなし。

2025-02-10 19:47:35 | 歴史
 昨年秋、約10年ぶりに新市街の松本外科内科医院へ母を連れて行った。この医院はかつて「かむろ坂」(下図参照)と呼ばれた道に面していた。ところが医院が北の方に移動したため、今では「かむろ坂」には面していない。
 以前、このブログで話題にしたことがあったのだが、その昔、鷹匠町と呼ばれていた一角にあった「かむろ坂」は、今日ではどう見ても平坦な道で「坂」ではない。これは日頃ご指導いただいている「津々堂のたわごと日録」さんによれば、藩政時代、藩主のお屋敷「花畑邸」の南側には馬の調練のための「追廻(おいまわし)」という馬場があり、その横の窪地を「追廻田畑」と呼んでいた。「追廻田畑」は旧坪井川の流路に沿った低地だったため、「追廻」と「追廻田畑」には高低差があり、その間をつなぐ道は当然坂道だったということのようだ。また、「追廻」と「追廻田畑」を区画する土手には桜が植えられ花見の名所でもあったそうだ。この一帯は下級武士の屋敷町があり、藩主の鷹狩り用の鷹を訓練する鷹匠の居住地区だったことから、南北に走る道は「鷹匠小路」と呼ばれ、後に一帯を鷹匠町と呼ぶようになったという。この窪地が埋められ、平地になったのは昭和20年の戦災で街が破壊された後の戦後復興の時だという。さらに津々堂さんによれば、「かむろ坂」の名の由来は、この坂で禿(かむろ)が転んだからだとか、低地で水を「かぶる」からだとかいう伝承があるとのこと。
 もう8年前になるが、肥後銀行本店の里山ギャラリーで行われた「永青文庫展3 永青文庫に舞う鳥たち」という展覧会を見に行った。鷹狩の絵巻を始め、鳥にちなんだ絵画、工芸、装束、古文書などの細川家のコレクションが展示されていた。その中で一つ、とても気になるものがあった。それは江戸前期の熊本藩の町図で、鷹匠や餌刺など鷹方が多く住んでいた高田原(今の下通・新市街辺り)の絵図だった。よく読めないのだが、各家の名字も記入してあった。その中に「禿(かむろ)」と読めるような家があった。受付で遠眼鏡のようなものを借りて確認したのだが判読できなかった。絵図に記入されている「禿?」という家名は、この「かむろ坂」と思われる位置に近い。もし、「禿」だとすれば、坂の名前と関係があるのではないかという気がした。


赤いラインの道がかつての「かむろ坂」


現在の「かむろ坂」跡の様子。

   大河ドラマ「べらぼう」にも多くの禿(かむろ:遊女が使う童女)が登場する。
こわらべ(あかね&ゆりあ)