
昨日のブログ記事に、ドナルド・キーンさんのETV特集についてふれたが、番組では、親友でもあった三島由紀夫から、絶筆となった「豊饒の海」の翻訳を託されていたエピソードも紹介していた。
「豊饒の海」といえば、第2部の「奔馬」を執筆するに当たり、神風連について取材するため、三島が熊本に荒木精之を訪ねたことがよく知られている。荒木精之とは戦後、熊本にあって文芸界のリーダー的な役割をはたした作家である。既にこのブログでも何度か紹介したことがあるが、荒木先生とはたった一度だけお会いしたことがある。もう40数年前のことだ。
僕が会社に入って2年目の頃、当時の工場長から社内報を発行するようにとの指示があった。人事労務部門の新人だった僕にそのお鉢がまわってきた。さっそく社内の編集委員会なるものを組織し、記事内容を話し合ったが、その中の一つとして定例的に地元ネタを載せようということになった。

そして、ある先輩社員の提案で「肥後の民話」を載せることになった。その先輩が言うことには、ネタは荒木精之先生に相談してみたらどうだと言う。まだ僕は荒木先生のことは全く存じ上げなかった。うだつの上がらない田舎作家くらいに思っていたかもしれない。怖いもの知らずで、いきなりアポなしでご自宅を訪問した。熊本市内の薬園町にあったご自宅の格子戸を開けて声をかけると、上の写真の通り、文士らしく着物姿の先生が現われた。来意を説明すると、先生は「わかった!」と仰って奥の部屋へ。しばらくして戻って来られた先生は一冊の本を携えていた。「これを使ったらどうか!」一瞬ためらった僕に先生は「いいから持ってけ!」それが左の「続 肥後民話集」である。先生にお会いしたのは後にも先にもその時1回きりだった。その後、先生の著作や業績を知るにつけ、なんと無礼なことをしたのだろうと恥じ入ったものだ。

昭和41年8月、三島由紀夫を熊本駅で見送る荒木精之先生