今回の風景は、本妙寺の本堂から約百六十段を登り、加藤清正を祀る浄池廟へ至る磴道(いしだんみち)。その名も「胸突雁木」。昭和初期の風景と今年の春の風景を並べてみた。
日清・日露から戦前までは軍神として清正信仰が盛んで、参拝者の数は今とは比べ物にならないほど多く、胸突雁木の両側には宿坊、茶店などが軒を連ねていたという。民謡「おかげ参り」に「名代は菜飯の田楽屋」と唄われるように小料理屋などもあったのだろう。また、一時期、ハンセン病の治療施設もあったらしい。
文豪・森鴎外は、小倉の第十二師団軍医部長の時に熊本を訪問し、「阿部一族」など作品の題材を得たようだが、明治32年9月に本妙寺浄池廟に参拝している。小倉時代のことを記した「小倉日記」の中にその時のことが記されており、胸突雁木には三つの道があったが自分は真ん中を通ったと書かれている。現在は左右両側だけで真ん中は通れなくなっている。登り着いた浄池廟は「香花極めて盛なり」と記されている。この写真は昭和初期の胸突雁木で、鴎外が訪れた時から30年ほど経っているがおそらくそれほど変わっていないと思われる。
昭和初期の胸突雁木
そして現在、店といえば中門下に「御宿 廣嶋屋」が残るのみ。2016年4月の熊本地震では胸突雁木も多くの石灯籠が倒壊するなど甚大な被害を被った。本妙寺のシンボルである仁王門の修復もやっと緒についたばかり。かつて胸突雁木が参拝者であふれた「頓写会」が戻るのはいつの日だろうか。
今年3月、桜の頃の胸突雁木
♪ おかげ参り
日清・日露から戦前までは軍神として清正信仰が盛んで、参拝者の数は今とは比べ物にならないほど多く、胸突雁木の両側には宿坊、茶店などが軒を連ねていたという。民謡「おかげ参り」に「名代は菜飯の田楽屋」と唄われるように小料理屋などもあったのだろう。また、一時期、ハンセン病の治療施設もあったらしい。
文豪・森鴎外は、小倉の第十二師団軍医部長の時に熊本を訪問し、「阿部一族」など作品の題材を得たようだが、明治32年9月に本妙寺浄池廟に参拝している。小倉時代のことを記した「小倉日記」の中にその時のことが記されており、胸突雁木には三つの道があったが自分は真ん中を通ったと書かれている。現在は左右両側だけで真ん中は通れなくなっている。登り着いた浄池廟は「香花極めて盛なり」と記されている。この写真は昭和初期の胸突雁木で、鴎外が訪れた時から30年ほど経っているがおそらくそれほど変わっていないと思われる。
昭和初期の胸突雁木
そして現在、店といえば中門下に「御宿 廣嶋屋」が残るのみ。2016年4月の熊本地震では胸突雁木も多くの石灯籠が倒壊するなど甚大な被害を被った。本妙寺のシンボルである仁王門の修復もやっと緒についたばかり。かつて胸突雁木が参拝者であふれた「頓写会」が戻るのはいつの日だろうか。
今年3月、桜の頃の胸突雁木
♪ おかげ参り
どうも昨日の疲れがまだ残っているようです。
有難うございました。
いいですね~、今の私の心持にぴったりきました。
やはり、日本人は神社仏閣が心の安らぎの場所なんでしょう。
>・・・軍神として清正信仰が盛んで、参拝者の数は今とは比べ物にならない・・・
戦と神様、仏様を結びつけて考えたことありませんでしたが、そういうことだったのですね。
なにしろ「戦争を知らない子供たち」世代の私は、そのような光景に接したことなかったもので・・・。
ただ、傷痍軍人さんが募金箱を持って数人並んでいた姿は思い出されます。
森鴎外も読んだことないですが、軍医と文豪という二つの人生を歩んだ人の文字には深みがあることでしょうね。
FUSAさんこそ、幾つもの世界を覗かれたように想像しています。
有難うございました。
本妙寺は戦前はハンセン病患者のアジールのようになっていた時代もあり、戦後は傷痍軍人さんやその他の物乞いなども大勢いたので、私の祖母からは近づいてはいけない場所だと教えられていました。
そういう歴史もだんだん人々の記憶から消えていくのでしょうね。